我を見失い、我に返るため、どうすればいい?
私たちは往々にして目や耳といった五感で見聞きした
“対象物”に自動的とも言える程に反応することによって、
その反応にまるで呼応するように、
怒り、憤り、悲しみ、喜び、心配、不安、迷いといった、
感情がその瞬間の場面で必ずと言っていい程出て来ます。
そして、ほとんどの場合、流れに逆らうこともできず、
また改善する余地もなく、当たり前、普通、標準という
感覚で受け留めているのではないでしょうか。
さらに実際の生活や仕事という社会では、
なぜか理由もわからず、どうにもならないまま、
“自分の想い通りにはいかない”と思える方向へ
突き進んでいくケースがあります。
仮にその原因がわからなかったとしても、
心の片隅に“何とかしたい”という強い想い、欲求があり、
より踏み込んだ言い方をするなら、
『魂の成長』を本心から望んでいるのであれば、
最終的な正しい方向性、つまり『本当の自分』を信頼し、
“自分自身を救い、自覚できることを信じている”
そんな言い方もできるかと思います。
ここからが最も大事で重要なことなのですが、
長い人生でいろんな出来事、つい経験を立てにして、
これまで固辞してきた執着、固定観念、価値観と言った、
「”足かせ”と思えるような余計かつ無駄なモノを
最終的に手放せるか」
それがこの世で最後のイベントであり、
同時に人生最大の挑戦となります。
日々の修練の積み重ねによって自分でも気づかないうちに、
今までなら執着などを手放せないと思っていたのが、
ある日その瞬間から必要性がなくなり、
それと入れ替わるように、
“『全幅の信頼ができる存在』と繋がっている”、
そんなシナリオを描き、その通りに導かれていくのも、
人間なら誰しも心の奥に持っていると確信できるか否かに
かかっているように思います。
結局、私たち人間は、日々の日常生活や仕事をしていく中で、
目の前で起きる出来事や人間関係に向き合うことで、
その状況、局面に何らかの反応してしまうのは避けられず、
もし、そんな状況になってしまったとしても、
“意識の方向性と持ちようによって、
反応の最中のみならず、その後になったとしも、
修正していくことは十分可能となります。”
そのことを“魂の視点”という捉え方で、
さらに集約された表現をすれば、
「我を見失い、我に返る」
このフレーズに尽きると思います。
ここでの“我”とは”自我(エゴ)、個の自分”であると同時に
“真我、本当の自分”のことを指しています。
このように重複の解釈することで、
頭の中が混乱するかもしれませんが、
自我とは真我から観たら、ほんのわずかな
一部分の現われでしかなく、
さらに言葉の表現を超え究極の真実を言えば、
“自我(エゴ)、個の自分“とは心が創り出した、
“存在しているかのように見えた仮想世界”
に過ぎすないのです。
本当の実在という世界(真実の世界)では、
“真我、本当の自分だけが在る”ということです。
この世に生きている間、
「我を見失い、我に返る」という行為を
何度も何度も諦めず忍耐強く繰り返し、
その都度、素直そして謙虚に心の内側に向かって、
“反省”を促し“修正”していく、
そのことが、“己の真の成長”、
つまり『魂の成長』にとって、
不可欠な要素と言うことです。
これはとてもシンプルなことで、
自分(本当の自分)で真剣に向き合えば向き合うほど、
非常に奥が深いことも身に染み込ませることによって、
わかってくるとかと思います。
ここで注意が必要なのは、
“身に染み込ませてわかる”という理解は、
所詮、ひとりの個人、それも心という
限定された範囲のことに過ぎません。
だから、一緒に暮らしている家族、
仲のいい気心が通じる友人であろうと、
“お互いに通じ合う、共感・共鳴できる”
という共通認識の要素がなければ、
決して相互理解には至りません。
むしろ、「我を見失い、我に返る」ための
“お膳立て、サポートしてくれる協力者”
“自我(エゴ)、個の自分を徹底的に鍛え直し、
“真我、本当の自分へ一緒に同行するトレーナー”
という見方のが“正しい見方”のように思います。
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