子供(孫)から学ぶ大切さ
年に数回、娘夫婦が当家に帰省する際、
孫(男の子)を連れて来る度に成長が嬉しく感じられ、
楽しく気忙しい時間を共に過ごすことになります。
幼少の孫と一緒に過ごすことで、その行動を通して、
喜怒哀楽、さまざまな場面を見ることとなります。
同じことで遊んでいるように見えても、
顔の表情、手の動き、いわゆる一挙手一投足の動きを
見ていると刻々と変化する違いに気づかされます。
つまり、動作ひとつとして同じことをしていない、
わけです。それは人として少しずつ時間をかけながら、
成長のプロセスを踏んでいるという言い方もできます。
もしかしたら、何気なく義務感のような
型にはまった、自分に言い聞かせるような感じで、
「孫と接する」と言われる方もいるかもしれません。
要は孫に接する際の在り方、気持ちによって
“無限の表現に対する理解そのもの”が
断然違ってくるわけです。
別の言い方をすれば、
“素直かどうか”、その時の心の受け留め方、
精神状態、気分などによって、
微妙にまたは大きく異なる可能性がある、
ということです。
忙しい、面倒くさい、時間がないといって、
心に余裕がなく、人間関係や現れた状況を
目の前にして振り回され、焦って不安になり、
パニックや大混乱に陥るか、
もしくは、ゆっくり焦らず、慌てず、
冷静に物事を客観的に判断し、落ち着いた対応へと
心の状態をシフト・チェンジしていくか、
少々回りくどい表現となりましたが、
結論を言えば、私たちは魂本来の生き方に従えば、
精妙で調和のとれれた何の不自由もない、
“普遍意識(神、愛)の世界”で生きていけるわけです。
私の孫に限らず、このような年頃の子たちは、
当然のことながら、大人たちのよう固定観念、
先入観といった“既存思考の傾向、固執”などを
ほとんど持ち合わせていません。
また、子たちは純真無垢の意識状態で在るため、
感じたままのストレートな表現や行動を取るのが
自然であり、そこから共感が生まれることで、
人間としての成長が促されていきます。
彼らは『愛そのもの』という表現も、
ズバリその通りですので、周囲の大人たちが
ひたすら純粋な想いで接していき、
“愛を受け容れる心の器”が大きくなればなるほど、
“愛情を注ぐ”という行為もまた、
より一層磨きがかかってきます。
その姿、姿勢をひと言で表現するなら、
『我以外皆我師也』
このフレーズが最適のように思われます。
ところで、突拍子のないことを言いますが、
自分の孫に対して、『我以外皆我師也』の態度、
姿勢で臨むというのは、“決して容易なことでない”、
ということは、ご理解できるかと思います。
しかし、“決して容易なことでない”だけに、
逆の見方をすれば、敢えて挑戦することによって、
『我以外皆我師也』をさらに深く、広範囲に、
本当の意味での理解に近づける、
“最高のチャンスかつ突破口”
という言い方もできるわけです。
私とて修行の途上の身ではありますが、
その点について、個人的にかなり強い魅力を
感じていますので、真剣に取り組んでいきたい、
と思っています。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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