あの世へ持っていけるモノ

今回のタイトル「あの世へ持っていけるモノ」
ご覧になって意外に思われ、突拍子感さえ
あったかと思います。

出どころのヒントは身近なところにあり、
マンション管理員という現在の職場で、
マンションの住人、特に高齢者の方々と
日々接する会話の中で“違和感”が起点でした。

その“違和感”の対象者となったのは、
いずれも80歳以上の男性の方々なのですが、
年齢的なこともあり、会話の中で“死”について
触れる場面が度々出てきます。

一方では、日常生活の状況について、
株取引、ギャンブル、健康問題、年金生活など、
その根底にあるのは“お金”“肉体”に関することが
ほとんどです。

対面でリアルに見聞きすると、

“現実世界にどっぷり浸かって生きている”

そんな個人的な見方もできるかと思います。

ここで誤解を避けるため、予め言っておきますが、
私はそのような生き方や価値観を決して批判、蔑む
意図は毛頭ありません。

どのように人生を送ろうが、何を選択されようが、
この地上世界で自然法則に沿うならば、
人間の自由意志は必然的に尊重されなければ
なりません。

そして、その大前提を外さなければ、他人と比較したり、
また、否定や批判、拒絶という分離、
つまり、分けて物事を考えたり、捉える
必要性がなくなります。

このことによって結果的に何ものにも縛られない
自由なポジションであらゆる事柄を客観的に観ながら、
対応できるわけです。

さらに踏み込んだ言い方をするなら、
人間の習性とも言える“妄想、迷妄、空想”といった、
“頭の中で描かれる自分勝手な世界”にハマって、
人生の貴重な時間をムダにすることも
なくなります。

頭の中を整理していくと、この“違和感”の正体は、
非現実の“死”と現実の“生”との解釈や理解を都合よく棲み分け、
別物扱いで考えているように感じられたこと、
それが“心の中で引っ掛かった”だけのことでした。

敢えて表現するなら、
前述の価値観や考え方の違いから生じる分離感とは異なる、
“隔たり”、”ギャップ”という感覚で感じられた、
というのが本音のように思います。

物質偏重の社会では、おそらく多くの人たちが、
自分で気づかないまま、固定的な考えに囚われ、
固執することによって、自由の真の意味もわからず、
結果的に束縛されているように感じられます。

今の仕事の現場で、
「何もやることがない」、「時間を持て余している」、
そんな話を直接聞く度、一瞬は羨ましいと思いながらも
同調できず、むしろ虚しさに近い感じで、
疑念が心に残っていました。

そして、私の中から、
「もし、私が同じような立場や状況だったら、
 何をするだろう?」
と自問自答することも度々ありました。

最終的に出てきた答えは、

「この地上世界に何のために生まれてきたのか?」

「”お金”や”目の前の現実”とどう向き合うか?」

「魂の目的のために命の使っているか?」という

“人として生き方の本質、真理”へと問い直す言葉でした。

これらの表現を見て人によっては、
“根拠のない空想世界の理想論”を掲げているように
思われるかもしれません。

しかし、人間の狭い視点(顕在意識)を超えて、
もし、通常は顕在意識に覆われ、わかりずらい、
人間の原点とも言える“魂レベル”のところまで
立ち戻ることができた時、

さらに不断の努力の積み重ねることによって、
『魂の成長』の真の意味がわかるようになれば、
「あの世へ持っていけるモノ」の手がかりが
見つけられるように思えるのです。

人間は死んで火葬されるからには、当然のことながら、
“お金”“肉体”という物質は、あの世へ持っていけません。
それがわかっていながら、この世に執着される方も
いらっしゃるもの事実です。

そのため、死ぬとわかっていながら地上次元に留まり、
“もっと生きたい”、”もっと楽しみたい”
そのような強烈な執着心(エゴ)を持ったまま
最期を迎えることになるわけです。

ところが、火葬されても消滅せず、
死んだ本人が自覚できるモノとして、
“意識”が残っている可能性が考えられます。

例えて言うなら、夢を見ている状態で、
身体の持つ五感の感覚はないものの、
“自分の意識だけはある”という状態が
近いように思います。

ただし、“もっと生きたい”、”もっと楽しみたい”
というような“囚われ、執着を持っている意識”
つまり、死んでも生きていた地上次元と同様に
まだ自我意識を持ち続けているわけですから、

前出の「あの世へ持っていけるモノ」とは、
『魂の成長』を大前提としているため、
全く違う道をたどっていくことになります。

非常にザックリと大雑把な表現となりますが、

「天国と地獄ほどの違い」

そんな言い方もできるかと思います。

「天国に行きたい」と思うのは、私たちにとって
むしろ自然な心の動き、願望であり、
ストレートな反応ですから、そのことを起点として、
“魂レベル”まで立ち戻れるかが鍵となります。

この世で生があるうち現実世界において、
自分自身の心や身体の状態に気づく、
つまり、“一定の距離を置く”ということが、
最も有効な“天国への予行演習”となります。

いわゆる“客観視点”、”俯瞰視点”といった手法であり、
忍耐強く継続することで、自我意識から抜け出し、
『魂の成長』へとつながっていく、
最善の手段と成り得ます。

このように“広がった意識”とは、
『普遍意識』の顕現のことであり、
地上人生で得難い貴重な経験を通して、
個々の魂に“叡智”としてしっかりと
刻まれているわけです。

それこそが本当の意味で、
「あの世へ持っていけるモノ」であり、
同時に“人生における真の目的”でもあります。

今回のブログの内容を凝縮し象徴的なメッセージを
引用して終わりたいと思います。

「死」は終わりではなく
永遠の「魂」の表現が変化する現象

肉体の終わりが終わりではなく、
むしろそこからが本番!だとしたら、
この物質次元の人生を如何に生きるのでしょか。

田久保 剛・vest語録

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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