「利」と「義」の間で

「利」と「義」の2つの語は、
仕事での人間関係を通じて感じたもの、
エッセンス、凝縮されたのように、
私の内側から出できました。

いずれも、今の私の個人的見解の範囲で
述べたものですが、“人生の指針の一つ”として
参考にして頂けたら幸いです。

「利」とは「利己」、「我欲」、
すなわち、個人の利益を優先し、お金、物、名誉、
地位、肩書きなどに重きを置き、他者と比較して
より優位に立ちたいという個別意識、自我意識(エゴ)を
一言で集約した意味を表しています。

私たちは通常の社会生活をしている中では、
人間関係も含め、否応なしに「利」を優先するのが、
ごく当然という認識が定着していることに
不自然さを感じるのは少数派のように思います。

しかし、そういった価値観、思想、信念の違いから、
恨み、嫉妬、憎しみといった偏重の思念が生み出され、
固執することで、他者と争い、傷つけあい、
物を奪い合い、極端な場合、殺人へと至るわけです。

その背景として考えられるのは、何らかの
“結果、成果、報酬”といった対象を欲しがり、
貪欲に求めようとする心理があるように思います。

さらに悲しく虚しいことかもしれませんが、
仮に“結果、成果、報酬”を得たとしても、
それは“一時的な達成感、満足感に過ぎない”ことを
“心のどこかでわかっている”はずなのに、

まるでその想いに逆らうかのように、
同じようなことを繰り返している自分に
ふとした瞬間に気がつくと、
突如として嫌な気持ちに切り換わり、

自分を責めることで自信や信頼を失って、
“自分が誰なのか、やるべきことが何なのか”
という“本来の自分の役割”忘れてしまい、
自分自身を見失ってしまうことさえあります。

一方、「義」とは「道義」「信念」といった、
言わば「本質」、「真理」、「自然の摂理」という
“心の奥に常に在る意識”を言い表している
ようにな思います。

ひと言で言えば、

『普遍意識(本当の自分)』

そのことを表していると言えます。

このような説明をしてしまうと、
人間的思考では表面的な二項対立の構図のように
思われるかも知れませんが、
本来は“ひとつ”であり、それが真実なのです。

より踏み込んだ表現をするならば、
「利」は自我が描き作り出した、
映画館のスクリーンに映り出された、
言わば「幻想」に過ぎず、

それは「実在」ではありません。

この表現での「実在」とは、
『普遍意識(本当の自分)』を指しています。

ところで、私たちは普段の日常生活の中で、
「幻想」と「実在」を意識して識別するようなことは
皆無と言っていい程、実践していないのが
実情だと思います。

また、“何も問題がない、または生じていない”
思ってしまいがちになる傾向も加わり、
必要性を感じないのであれば、関心や意識も持たない、
というのも当然の流れかも知れません。

しかし、この“何も問題がない、または生じていない”
と思っていること自体がそもそも“問題の原点”という
可能性もありますから、                               

問題そのものを見つめ直し、検証することも
考慮していかなければならないケースもあるか
と思います。

そして、その行動の鍵を握っていると言えるのが、
『心の柔軟性』もしくは『素直さ』であり、
それの前提となり、方向性を選択する一因が、
本人の“自由意志”となってきます。

つまり、よりわかりやすく言えば、
“本人の意識次第”というわけで、
意識の向け方が大切になってきます。

さらに補足すると、
意識の状態は本人しかわからない、
微妙で繊細かつ儚い感覚ですから、
“細心の注意深さ“が重要となります。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
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