物事の本質を理解することの大切さ

先日、当初の予定を変更して、
ある講演会に一聴衆として参加しました。

この日は毎月インターネットで参加している
私の先生の勉強会と日程が重なったのですが、
今回は”ご縁”が優先と考えて、
こちらの講演会に参加することになりました。

“ご縁”というのは、講師の方が娘がお世話になった
助産院の院長ということもあって、
家内とともに会場となっている近くのお寺まで行き、
その方の講話を聴くこととなりました。

全般的な話はお産に関することだったのですが、
男性の参加者も私を含め多くおられ、
皆さん真剣に院長のお話を聴かれていました。

私自身も娘が里帰り出産で産前産後の状況を
目の当たりしてきましたので、
とても印象深く貴重なお話を聴くこととなりました。

何かひとつでも情報を得たいという気持ちもあって
メモを取る準備をしていたのですが、
実際はほとんど取れませんでした。

しかし、講演の最後に話された内容はとても重要と思い、
メモを取りました。

それが下記の文章です。

「自分の意志で生まれ、自分の意志で生き、
 自分の意志で選択した最後」

この文章を観た時、
「まさにその通り!」と共感して
思わず心の中で納得感が突き抜けた
感じとなりました。

私の先生がよく口ぐせのように言っているのが、

「同じ文章でも人によってそれぞれ受け取り方は異なり、
 また、同じ人であっても日によって、
 もしくは心身のコンディションや置かれている立場や
 環境によっても影響を受け、最終的に受け取り方は
 異なってくる」

ということが身に染みるように感じられました。

また、先生は同じようなこととして、

「『既知ブロック』を外す」

ということもよく口にされています。

私たちは自分の外側から入ってくる
さまざまな情報に対して無意識、無防備でいると、
つい、過去の記憶をベースとして思い返してしまい、
「知っている、知っている」というように
手早く簡単に対応してしまいます。

このことは同時に、自分の持っている固定観念や
先入観を一旦外して、周囲の物事を客観視するための
1つのツールと言えます。

誤解される前に先に言って置きますが、
まず、個人的な優越感に浸る気は全くないことと、
そして、私に特別な能力はないということが
前提で意見を言わせてもらいます。

その意見とは、この文章の本質的な意味を理解できる人が
純粋にどれ程この会場いるかということでした。

この文中の“自分”“個の自分”、つまり“自我の自分“と
捉えたら意味は確かに書いてある通りの意味です。
また、すべての人間には『自由意志』が必ず尊重されますので、
いつでも自由に行使できるという解釈もできます。

ところが、“自分”とは『本当の自分』として捉えることで、
意味そのものが根底から全く異なってくるということ
になります。

講演をされた助産院の院長が何の意図や動機から
この文章を使われたのかは不明なのですが、
個人的には後者の捉え方の方が納得感があり、
腑に落ちる感覚があります。

人によっては、
「単なるこじつけ」と思われる方も
いるかもしれませんが、

仮にそのように思われ、とがめられたとしても、
気にすることなく、反対に十分に価値のある解釈だと
確信しています。

極論を言えば、この講演会でこの文章と遭遇できただけでも
幸運でしたし、また参加した価値は十分にあったように
思います。

つまり、“自分”『本当の自分』に置き換えられるという
文章はそれだけ重要な意味を含んでいるメーセージの場合が
多いよう思います。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
このブログの感想のコメントを一言でも頂けたら
今後の励みになります。

どうぞよろしくお願い致します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください