昨日と今日は同じではない

今回のタイトル「昨日と今日は同じではない」は
表現だけの意味を考えていくと、
日付や曜日も違い、時間ごとの行動、
心理状態や環境、条件も異なるので、

「ごく当たり前、当然のこと」
という解釈になります。

しかし、それはあくまで見た目のことだけを
言っているに過ぎません。

「昨日と今日は同じではない」

言い換えたら、

「昨日と今日では違う」

つまり“違い”に本当に気づいているかどうかが
とても重要になってきます。

では、“本当の違い”とは一体何なのでしょうか?

私たちは仕事や家事に限らず、個人的に毎日のように
“日課”として行っていることが1つや2つ、
必ずあると思います。

ところが、その大小に関わらず、
実際にそれをピックアップして改めて自ら観察してみると、
意外な程、無意識、無防備といった表現が当てはまる程、
“慣れや惰性でやっている”ことに気づきます。

だからと言って現実には、
危険物を取り扱うような特殊な作業を除き、
“慣れや惰性でやっている”からと言って、
問題やトラブルが発生する事態になることは
ほとんどありません。

もしかしたら、
“慣れや惰性でやっている”のが悪いことのか」
という反論の意見が出てくるかもしれません。

しかし、“新たな気持ち”“改めて見直す”
というような意識へ切り換えて、
実際に行動に移して心の中で距離を置く感じで、
より客観視して観るようにすると、

“過去と現在の本質的な違い”があることに気づけます。

ただし、その“違い”には“人間の視点に有りがちな”

好き、嫌いとか、
正しい、間違っているとか、
大きい、小さいとか、

というような基準、価値といったものは
当てはまりませんし、極論を言うならば、
“それらは幻想に過ぎません”

単に行動を通して過去と現在では、
“ただ違いが在る”というだけなのです。

では、“ただ違いが在る”とは、
どうゆうことなのでしょうか?

あくまで過去とは“記憶”として残っているだけで、
目の前に展開している現在ではありません。

“記憶”は過去を参照することで、
現在に“再現”する働きがあります。

つまり、慣れや惰性という無意識、無防備の状態とは、
過去を参照して現在に“再現”することを
“野放し”にしている可能性もあるわけです。

その結果として、過去の“記憶”のしがらみから
離れることができないまま、最も大切な今、現在という
“瞬間”を疎かにしてしまいがちになります。

「過去に縛られている」

そんな言い方もできます。

ところで、未来について私たちは何気なしに
“次の瞬間が有る”と思い、そして生き続けると
思いがちなのですが、

真実の視点から観れば、
私たちの生命は“次の瞬間”に保証はありません。
だから“次の瞬間”に死ぬ可能性もあるわけです。

私たちはそのようなことでも“無知”なため、
実際に事故死、突然死などを目や耳にしたとしても、
つい“他人事”と思ってしまいがちなのです。

しかし、もし今、現在という“瞬間”
焦点を合わすことができたなら、
ひとつひとつの想い、言葉、行動に伴う
心の細部の変化まで観ていけるように思います。

例えば、私が毎日のようにルーティーンで自らやっている、
炊事、洗濯、掃除といった家事、
散歩、パソコン、スマホ作業といった日課、
そのような事柄、つまり日常生活すべてに
当てはめることができるのです。

そして、少しずつでもできることから実践することで、
“ただ違いが在る”という実感を肌感覚で味わい始めている
ように思います。

真実として言えることは、

“本当の違い”

その感覚は本人の経験を通してしか得られない、
貴重な心の成長の糧であるということです。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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