今という瞬間は「生」と「死」も共通
2024年1月1日にあった能登半島地震で被災され、
その時、特に印象に残った方がいました。
地震半年後、同じ方のその後について
書かれた記事の中に、
「本当に家族との時間というのは、
1分、1秒が『宝物』だった」
という表現があり、思わず目が留まりました。
この方は自分以外の家族を地震で亡くされたという、
壮絶で極限とも言える状況と経験の中から出てきた、
真実の言葉、比類のない重みのある言葉として
受け留めました。
つい私たちは、そのような類の情報を目にし耳にすると、
人として同情の気持ちが募り、一時的に共感するぐらいで、
最終的には、他人事として解釈もしく認識で終わり、
記憶も時間とともにだんだんと薄れていきます。
ただし、“時間の大切さ”については、
人として今生で生きていく限り、
私たちすべてに共通した最重要テーマ、
と断言できるのではないでしょうか。
今回のテーマにつながるヒントが、
インドの聖者アンマのアシュラムから出版された、
冊子の中から見つけましたので引用します。
過去の行為について嘆いていても意味がありません。
マートルヴァーニ 2014年9月号 P8L1~9
すでに幕は閉じられたのです。起きたことは終わったことです。
なるようにしかなりません。重要なのは今この瞬間です。
私たちの全未来は今日何をするかにかかっているからです。
私たちは神の神聖な光を瞬間瞬間ごとに、自分の生き様によって
表さなくてはいけません。 もし私たちがこれをできるようになれば、
何一つ私たちを縛りません。 今この瞬間に生きなさい。
つまり神に、真の本質に生きるのです。 これによって人生の車輪が
私たちに影響を及ぼすのをなくすことができます。
死の恐怖を打ち破るでしょう。
また、上記を補足する形で下記のように書かれています。
私たちは人生の瞬間瞬間を、それがいかに貴重かを意識しながら、
マートルヴァーニ2014年12月号 p45L1~6
堪能する必要があります。 動物がするように、
五感の快感を追いかけていては、人生は意義あるものになりません。
周囲に幸せを広めたときに意義あるものになります。
この理解が人を本物の人間にします。
自分がどれだけ生きられるか知っている者はいません。
ですから、 できる限りの、やるべき善い行いを修めるべきす。
明日に延ばさないようにしましょう。
これらのことを読んだ後、冒頭の記事の内容について、
私なりの主観とともに、ある仮説が出てきました。
今という瞬間について、
どうしても「生」と「死」という現象面だけを、
見てしまいがちです。
加えて、人間の喜怒哀楽の感情面に引きずられる
ケースが多々あるため、心の流れとして必然的に、
“両者は異なる”という捉え方をします。
ところが、今という瞬間を単純に、
“時間のひとつの断面”という解釈で捉えると、
「生」と「死」を異なり、隔て、区分けする
という思考そのものが、全く意味がないことが
わかるかと思います。
そうなると突拍子もないことを言うようですが、
つまり、“今という瞬間”には“時間の断面”という
側面も在り、その視点をさらに深く掘り下げていくと、
「生」と「死」も本来は共通、
もしくは同じとも言える、
そう想えても不思議ではない、矛盾してない、
という考えに至りました。
テレビや映画の過酷な戦場のシーンで、
「生と死は隣り合わせ」
という表現が出て来ることがありますが、
指し示す本質は同じだと思います。
ただ、残念なことに、医学的、科学的根拠な
基づいた立証もできず、霊的真理の探求の経験から
確信に至ったプロセスから、
「それが”真実”だ」としか言えないのです。
霊的真理(スピリチュアル)の探求ついては、
人々の評価、見解は玉石混交で正誤の分別さえままならず、
その不信感故に遠ざけ、回避、逃避など、
多くの心理作用が複雑に働くことによって、
世間全体から見れば、“ごく少数派”に属します。
“ごく少数派”と表現されると、
不信感や不安、心配、卑屈な想念が出て来きて、
つい心がブレ出すと、
私の経験上、孤独感へと陥りやすくなり、
霊的真理(スピリチュアル)の探求を続ける上で、
“煩わしい障害”となる可能性があります。
ここまで、いろいろとグダグダ書きましたが、
紆余曲折さまざまな考え、意見があると思いますが、
“どう対応していくのか?”
このことを切り拓き、選択していくのは、
自らの自由意志ですから、
“本人の決断力”が不可欠となります。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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