人生を素通りして生きてませんか?
私たちは普段生活している中で人生のことについて
真剣に考える機会は少ないかと思います。
仕事や家庭のことで忙しく手一杯で、
考える余裕がない、必要性を感じない、
面倒くさい、わずらわしい、
そのような方が多いのではないでしょうか。
周囲の誰かが病気になったり、亡くなったりした時、
また、自分が病気やケガをした時など、
インパクトのある出来事が目の前で起きた時に、
ふと自分の人生に目を向けない限り、
意識を向けることはないように思います。
前回のブログに登場された知人のKさんも、
数年前、お元気だった頃、わかっていながらも
どうにもできなかったと想像できます。
安心して毎日の生活を送りたい、
静かで平穏な暮らしがしたい、
そんな想いは誰でもありますから、
できるなら、病気やケガなどをしたくない、
厄介で困難な出来事を避けたい、
と思うのは当然かと思います。
そのためなら、多少のことは無理しても我慢したり、
また、状況によっては無視、スルーしたらいい、
そして、極めつけは我を通したらいい、
というように知らず知らずのうち、
家族や友人といった身近な人たちとも隔たりができ、
個人意識特有の固定化された対応となりがちです。
そして、孤独感と隣り合わせているのに、
それに気づいていないまま見過ごしている、
それでも、この世の中では何もなかったかのように
生きていけます。
「問題や課題を抱えたり、悩んだりはしていない」、
という自己評価をして、心の内面についてケアの必要性を
全く感じていないわけです。
そんて、そんな人たちは必ずと言っていい程、
「自分は大丈夫、
自分のことは自分が一番良く知っている、わかっている」
というような一見自信と思えるような認識を心の奥底で思っています。
しかし、実際は、
“自分のことは自分が一番良く知っているつもり、わかっているつもり“
この“つもり”が曲者で、“本当は、よく知らない、わかっていない”、
という可能性が十分にあります。
つまり、私たちは、“自分のことを知っている、わかっているようで、
その実、ほとんど知らない、何もわかっていない、
さらにそのことに気づいてさえもいない”、
ということなのです。
古代ギリシャの著名な哲学者であるソクラテスが
晩年に言ったと言われている、
「無知の知」とはそのことを意味しているのです。
ところで、もし、あなたは他人から、
「自分のことが好きですか?、それとも嫌いですか?」
と聞かれた時、何と返答されますか?
本当に自分のことをよく知っているのなら、
その答えは既に決まっているはずです。
ところが、返答に一瞬でも迷ったり、
躊躇したりするのであれば、
まだ、自分のことをよく知らず自信がないから、
そのような心の状態になるとも言えます。
“自分が無知である”と自覚していかないと、
“本当は何者であるかを知らないまま”、
最終的には、“自分を完全に見失う”方向へ向かっています。
さらに、その見失ったままの状態から抜け出せず、
また、この世の何らかの対象に強い執着を持ったままでいると、
『心の自立』ができる機会を逃してしまい、
死に対する不安、心配、恐怖心などを抱え込んで
人生の最期を迎えることになります。
これは決して脅しで言っているのではなく、
これまでの人生で両親をはじめ、
さまざな人たちの最期を看取ってきて
私なりに思ってきたことです。
このようなことから、私たち人間の知識とは、
たかが知れていて、まずはそれを知ることから始めないと
前進することができないということです。
「海岸の砂浜全体が宇宙とすると、
人間の頭の中にある知識は、
『一粒の砂』にも満たない、」
という例え話を聞いたことがあります。
つまり、そのくらい人間の知識というものは、
極めて限られていてるということを意味しているわけです。
いずれにしても、私たちは人生の最期を迎えるまでの
どこかの時点で無知であることを気づくか、
あるいは気づかないかの状況によって、
“人間である本当の意味”をそれ識るかどうかの
重大な分かれ道となって来るように思います。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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