「自問自答」その真の意味

前回のブログで著書黎明の中に掲載されている詩が
他に2つあると書きました。
その1つが下記にある短い詩です。

前回のブログに掲載した「天命」と読み比べると、
『自分自身に問いかける』という哲学的な傾向がある
詩のように感じています。

そして、これらの問いについて、

「いずれもすぐに答えが出てくるものではない」

ということもわかるかと思います。

ところが、そうとわかってはいながら、
私たちは人間の持つ本性からでしょうか、
また、焦り、不安、迷いからでしょうか、

どうしても答えを先に求めたい気持ちに
なりがちになります。

ただし、その答えとは往々にして、
私たちが頭の中で考え得るモノ、
現実の物質世界に存在するモノといった、

言わば“限定された有限なモノ”として
捉えているだけに過ぎません。

一方、私たちが本当は潜在意識で識っている、
心とか魂という見えない触れることができないモノ
というのは、その“限定された有限なモノ”
すべて含んでいる“際限のない無限なモノ”という
ことになります。

そして、なぜか不思議なことに私たちに見えない
触れることができないモノと考え思っていることは、
“存在自体が無い”という認識で判断してしまう傾向が
あるように思います。

言い換えるなら、“際限のない無限なモノ”とは、
私たち人間の五感を超えた存在物であり、
そして、見えない触れることができない
対象物でもあるわけです。

だから、ごく単純に“見えたり触れたりできない”から、
“そこには無い”という物質主義の見方や判断を優先し、
考えを固定してしまうと、一種の偏見がちな傾向に
陥ってしまう可能性が出てきます。

このことは見方の角度を変えると意外にも、

“肝心要なところを見落としている”

そんな言い方もできるように思います。

よりわかりやすく言えば、
私たちは目の前のことを観ているようで、
その実ごく一部だけを見て認識しているのであって、
その全容についてほとんど知らない、わかっていない、
ということが言えるのではないでょうか。

別の言い方をするならば、

“知らない、わかっていないことさえも
全く気づいていない”

ということも言えるのではないでょうか。

人間として生きている間に、
“知らない、わかっていないことに気づけるかどうか”、
まして、それが“人生での重要な分岐点”であることも知らない、
つまり、私たち自身が“無明”“無知”ということでさえ、
悲しく侘しいことにわかっていないのです。

その”無明”“無知”という状態から、
毎日少しずつでもいいから抜け出していき、
“真の答え”にたどりつくために、

『自分自身に問いかける』、

それは自分の心と常に素直に向き合い、
丁寧にそして注意深く観察していくことでも
あります。

そして、各自の人生において、それを諦めず、忍耐強く、
追い求める、探し続けることが不可欠のように思います。

私自身がこれまで紆余曲折の人生を送ってきたから
言えることだと思うのですが、ひとつの指標と言えるのが、
最近になって下記の詩だと思えるようになりました。

自分とは何でしょうか

なぜ 意識というものが在るのでしょうか

どうしてあなたは 今ここにいるのでしょうか

人生には目的があるのでしょうか

私達の生活している この世界の本質は一体何なのでしょうか

世界は何のために存在しているのでしょうか

(新版 黎明 葦原瑞穂著 太陽出版 上巻 p10)

どうしても私たちは日常の生活や仕事に追われてしまい、
気づかないうちに自分を見失いがちになりがちです。

また、そのことによって無関心を装ったり、無視したり、
あるいは意識的、無意識的を問わず、回避したり、
という行為、行動で誤魔化そうとする想いに
傾きそうになったりします。

しかし、その場しのぎ、小手先のことで済ましたり、
解決できることではなく、所詮“遠回り”と見えることを
しているに過ぎません。

そのような“遠回り”ばかりしていると、
せっかく人間として貴重な経験をするはずだった人生が
結果として何も得ることができず、一生を終わってしまう
ことさえあります。

誰しも自分の人生は後悔してムダと思い詰め、
悲しい結果にならないためにも、

『自分自身に問いかける』

というクセづけが必要だと思っています。

捉えようによってそれは、
禅問答に近い形かもしれませんが、
しかし、自分を追い詰めるということではなく、
自ら“真の答え”を見出していくのであれば、
必要不可欠なプロセスのように思います。

例え、親子、兄弟、夫婦、恋人、親友といった
親しい間柄であろうとも、厳しい言い方になりますが、

“真の答え”とは自分の内側にしかなく、

そのため自分自身にしかわからないため、
どうしても孤独の道を歩んでいるという
感覚になりがちですが、

“ある一線”を乗り越えた時点で、
実は“予想や想像すらできなかった”というも
わかってきます。

個人の経験を通じて、つじつまが合っている、
ということが次第に明らかになっていく、
そんな“実感を感じられる時”がいつの日か
必ずやって来ます。

その日を待てるかどうかは、
あなた自身の自由意志にもとづく行動の結果、
生み出された経験とその時の感情や気持ちを
じっくりと検証していくことによって、

“識別心や判断力の向上に磨きをかけること”
とても重要になってくると思います。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
このブログの感想のコメントを一言でも頂けたら
今後の励みになります。

どうぞよろしくお願い致します。

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