「霊性」と「冷静」について

「霊性」と「冷静」、
双方とも読みがなは「れいせい」です。

ダジャレを言うつもりで、
書き出したのではなく、
一見すると意味が異なるように見えます。

ところが、本質的に共通点があるように思えたので、
あくまでも個人的見解の範囲となりますが、
書き進めたいと思います。

「霊性」という言葉から、幽霊、霊魂、霊体など、
スピリチュアル分野とご縁のない、
また、関心や興味を持っていない人からすると、

目には見えないもの、信用できないものであることから、
恐怖や非科学的、非現実的、人生からの逃避などと
見られがちです。

インドの聖者アンマは、霊性について、

“心をどのように動かすかを教えてくれる科学”

“心の遠隔操作をものにするための方法” 

そのような表現をしています。

つまり、自分の心の状態に常に注意深く、
気づいている、いわゆる”心を客観視する”

重要性について言及しています。

ところで、一方の「冷静」についてですが、
心が落ち着いていて、慌てない、焦らない、
その場の感情に流されない、
そのような状態のことを意味しています。

そして、「冷静」の方が「霊性」より、
世間一般に馴染みのある言い方で、
日常においても比較的よく登場する言葉でも
あります。

多くの人々が「冷静」について、
その効果について頭では理解しているものの、
自らの考え方や行動の慣れ、傾向といったことが、
足かせとなってしまい、

仮にそのことに気づいていても、
悲しいことに心の殻から抜け出せず、
“手をこまねいている”、”どうにもならない”
というのが現状に近いのではないでしょうか。

以上のようなことから、個人的な捉え方や価値観による
表面的な違いに過ぎす、本質的には双方とも、
心の制御、コントロールという点については、
共通しているように思います。

世間体や一般常識と言われているような、
“基準、標準、平均、右に倣え”的なことが
正しいと見られがちな傾向を認めつつも、
心のどこかで抗っている状況によって、

心や性癖という課題、問題をクリアしたい、修正したい
という気持ちや意向が出てきたとしても、

「わかっているけど、それができない」

という本音の想いが、周囲の人たちにどうしても言えない、
“究極のジレンマ”に陥ってしまう可能性すら出てきます。

そんな言わば切羽詰まった状況になりながらも、

「何とかしたい!」

という説なる気持ちを活かしたいのであるならば、
これらは足がかりとなる有効な手段と成り得ます。

私の経験上から言えるのは、
表面上の見方においては“分析”という見方もできるのですが、
状況の変化や感じられる感覚、“波動”をつぶさに、
そして注意深く観察することで、結果として独自の識別心を
見出し磨いていくこととなります。

だから、その後に同じような出来事に遭遇したとしても、
その時に得られた経験の新たな学びよって、
これまでとは違った次元で観ているため、

「この感じ、何となく前とは違う」

というように掴みどころ、捉えどころのない
感じではありますが、

“精妙であり繊細、微妙な『違い感覚』に気づく”

という以前にはない感覚を味わっていたことに気づきます。

この感覚こそが、これまでの人生では探求できなかった、
『気づきの種』であり、この種を大切さを事前に
理解しているのであれば、その後の育成についても
あらゆる人の人生と絶対に切り離すことのできない
“人間として生きていく上での核心”であることに
結びつていきます。

そのことをより具体的に落とし込んでいくには、
日々の日常で生活そして仕事をしていく中で、
“行動”、”検証”、”反省”という“決め事”を自覚することで、

腕立て伏せや膝の屈伸運動といった反復練習のように、
その時できる最大限の素直で謙虚な気持ちと姿勢で、

成果や効果、結果などついて一切顧みず、
できるだけ丁寧に繰り返し積み重ねていくことによって、
ある日ふと振り返った時、“心の成長の足跡”
自分で識ることとなります。

ここから先は、“本当の自分への信頼”
“自分とは何か”という人間として永遠のテーマと
必然的に向き合っていくこととなります。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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