「人生の拠り所」持っていますか

最近、同じ仕事をしている方(以下Dさん)と
接しているうち、記憶の底にあった過去の
“あること”について腑に落とすことができたので、
今回はそのプロセスについて書きたいと思います。

それは、もう10年近くの前の話ですが、
私がマンション管理員の仕事で行き詰まり、
自分を見失いかけた時、ある占師に鑑定して
もらった内容と関連することでした。

いろいろな話を聞いたのですが、
その中で「人生の拠り所」について、
次のような話がありました。

「50代のうちにできたら、
 『人生の拠り所』を見つけた方がいい、
 できないと60代以降は、それまでとは違った環境で
 生きていくことになる」

聞いたその時点ではピンと来ませんでした。

ところが、時間が経つに連れ、
焦り、不安と同時に、反骨精神から

「そんな生き方したくない」

という意思表示の気持ちが出てきました。

そんな気持ちがあったからこそ、
師事している先生との出会いがあり、
今日まで続いてきた“霊的真理の学び”があり、
私自身の経験に根ざした事柄について、
今こうしてブログに書いているのです。

しかし、そうした中でも『人生の拠り所』については、
「どこに求めていくか」という方向性について、
当時のまま進展はなく中途半端な状態となっていました。

ところが、つい最近になって、
ようやくそれが重要な起点であることが、
“あること”を通し本質的な捕え方ができたことで、
理解に至ったように思います。

その“あること”とは、Dさんの人生観、価値観などから、
『人生の拠り所』とは何かを識る”
手がかりのようなものが見つかったように
感じられたからでした。

ここで注意したい点として、
Dさん個人を比較、批判したり、卑下したりする
意図は全くないことを予め言っておきます。

これは人間なら誰しも信じてしまいがち
と言えることなのですが、
“個の肉体が自分自身”と思ってしまうことで、
“ひとり”という物質的な感覚がつくられ、
その結果、心の孤独感が生じやすくなります。

それが1つのキッカケとなり、人や物、お金に対して、
怒り、心配、不安といった、“不安定、不要な要因”
自らつくってしまう可能性が出てきます。

さらに、支えたい、役に立ちたいという人間として
純粋で尊い奉仕の精神を持っているために、
最終的に選択した行動に拍車がかかってしまう
可能性もあります。

その結果、本人自身もわからず気づかないまま、
心のバランスを取ることが難しくなり、
自分の外側に頼ってしまう、『依存』という考えが
心の修正法の一つとして取り込まれてしまう傾向が
出てきます。

Dさんの場合、ご本人はもちろんですが、
私自身もしばらくの間、Dさんの『依存』について
気づけませんでした。

ただ、お互いに仕事を通して、
Dさんと価値観、考え方がぶつかり合う中で、
Dさんのことを理解しつつも、
一方では“違和感”も感じていました。

そんな背景もあって、
私なりの個人的な見解となりますが、
結論を言えば、

Dさんの『人生の拠り所』となっていたのは、
実は『依存』だったということです。

『依存』と一言に言っても、
それは物であったり、物に対するこだわり、
執着という想いであったり、
また偏った人間関係であったりというように、
さまざまなケースがあります。

『依存』について最終的に言えるのは、
その対象が何であれ、“一時的なモノ”であるならば、
“いずれ消滅、失う”という
原理、原則が在るということです。

ある意味、Dさんのことについては、
少々お気の毒なところもあり、それを考慮しても、
「哀れみの想い”で観るしかない」
と思うしかありませんでした。

同時にDさんに対して感謝する想いで、
私自身に置き換えることによって、
『人生の拠り所』を再確認していくことに
つながっていきました。

そういう意味では、今回の経験は、
私にとって貴重な出来事だったように思います。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
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どうぞよろしくお願い致します。

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