自然との共鳴 第2章

マンション管理員として以前の職場に勤めていた時、
そして退職してから、ぶらっと山歩きをしながら、
デジカメを持って気ままに景色や花や虫などを
撮っていました。

目的はもともと気に入った画像をこのブログに
アップすることでした。

写真を撮るだけなら、スマホで気軽にできるのですが、
私の場合、手荷物が増えるのもわかっていながら、
なぜかデジカメも持っていきました。

「デジカメの方が使い慣れていて、手にしっくりくる」、

「デジカメで撮る方が、写真をキチンと撮った気がする」

個人的な“こだわり”に過ぎず、
さらに、こじつけの域かもしれませんが、
それによって“気が済んでいた、納得していた”
そんな想いがありました。

このような他愛のない理由、
一種の私の“こだわり”なので、

「プロのカメラマンでもないのに・・・」

と皮肉に思われたり、感じたりしても、 
おかしくないと思います。

それでも私自身の中では、

「その瞬間を大切に、
 最高のモノを残したい」

という想いを常に持ち続けた結果のように
今なら思えるようになりました。

その頃の私は、それが何を意味していることさえ、
全く理解できませんでした。
しかし、最近になってようやく点と点が
つながったように思えてきました。

そして、自分の中で方向性が定まり、
深く本質を観ていく過程で、
“本来の意味”は単純なことではない、
ということが時間の経過とともにわかり初めました。

それは“自然とのつながり”を無意識のうちに
求めていたと思えるようになったからでした。

かと言って、被写体となる虫、植物などについて、
私は名前そのものに疎い方で、
ましてや知識も持ち合わせていません。

それでも、見た途端、
“これ!”という感じで反応がスパークし、
追随するように“惹きつけられたモノ”を感じたら、
“迷わず撮る”という行動を取るよう心掛けています。

“これ!”と決めた被写体を“迷わず撮る”
それの前提にあるのは、
“旬は今、この瞬間”という重要な概念とともに、
感性や識別心が大事なポイントとなります。

あくまでも個人的感覚の領域の変化ですので、
論理的に説明することは困難ですが、
現実世界では日常の仕事や生活に追われ、
悪戦苦闘していながらも、

心のどこかで、原点回帰というか、
癒やしや安らぎ、自分らしさを求めてなのか、
今だにその真相は明らかではありません。

しかし、最終的には、

“自然と共鳴し調和を求めてた”

と確信に近い感じで思えるのです。

“自然との共鳴し調和を求めてた”というと、
大げさに聞こえるかもしれませんが、
そんなこともありません。

今回のタイトルに「第2章」書いたのは、
以前勤務していたマンションが自然環境に恵まれ、
それが「第1章」という私の主観に基づいた
位置づけからでした。

また、「所変われば品変わる」ということわざを
引き合いに出せば、“ステージの違い”を感じつつ、
意識しての表現でした。

“素直にキレイ、心地いい、気持ちが和む、
心が落ち着く、清々しい”、

というようなことを少しでも何となく
“感じることができた”なら、または結果として、
“感じようと努力してできなかった”としても、

人と比較して優劣を競い、評価することは
全くンセンスであり、無意味なことなのです。
人それぞれ“必要とする過程”を経るわけで、
それでOKということです。

“なぜ自然と共鳴し調和を求めるのか?”

そして、その答えは“常に自分の内側”にあり、
日常の経験を通し、自分自身で見出して
いかなければならない、

それは、人として人生の意義と言っても、
決して過言ではありません。

それが真実です。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
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