自然の流れに沿った生き方とは Part3

もし、自然の流れに沿った生き方をひと言で言うなら、
自我意識(エゴ)から開放された“真の自由自在な生き方”
もしくは“在るがままの生き方”という表現になるか
と思います。

人によっては、悟りを開いた解脱者や覚者、聖者という
特別な存在のイメージという見方もあるにはありますが、

私たちでも取り組み方と努力次第で、
生き方、もしくは在り方を変えていくことは、
十分可能であるように思っています。

ただし、そのことで最も重要となるのは、
何のためにするのか、つまり“動機”です。

人生において何も不満や問題を抱えていない、
困ったり、悩んだり、苦しんだりしていない、
つまり、平和で穏やかな安心に浸っている方は別として、

ほとんどの方々はそうではないというのが
現実のように思います。

ただ、人それぞれに置かれた環境や状況、
そして心身の健康状態、性格、性質などによって、
受け留め方の違いだけがあるだけなのです。

そして、悲しいことにそのまま何もわからないまま、
“人生の足踏み状態”を死ぬまで続けようとしているのです。

人生における悩みや苦しみを何とかしたい、
どうにかして解決したいというのは、
確かに“動機”の1つではあります。

しかし、さらに深遠な“真の自由自在な生き方”
目指すのであるなら、まだほんの足がかりの領域に
過ぎません。

では、“真の自由自在な生き方”とは一体、
どうゆうものなのでしょうか。

まず、最初にこの自由自在の解釈について触れますが、
自分の想いのまま都合よく、勝手気ままに好きなことだけを
していけばいいという、言わばエゴが中心で自然の流れから
外れた生き方ではありません。

人にはそれぞれ独自の価値観や固定観念を持っています。
しかし、それは生活や仕事という側面においては
有効に役立つことがある反面、

思考という有限な枠組みの中での展開という
違った側面も同時に持っています。

そして、その原点と言えるのが心の奥底にある、
「人間の欲望、欲求」であり、
その結果、生み出されるのが、
『執着』となります。

つまり、この『執着』とどのように向き合っていくかが、
“真の自由自在な生き方”へ向かうための
試金石となるわけです。

ただし、明確に言えることとして、
人間なら誰しも必ず何らかの『執着』をもっており、
それがあるから人生を前進させていく原動力となり、
決して“悪者”ではないということです。

世間では一般に『執着』というと、
「固執する、囚われる」という意味の印象から、
どうしても“悪者”に見られがちです。

ところが、逆発想とも言える、“うまく利用する”という考えは、
皆無に等しいと言っても言い過ぎではないように思います。

実は、この『執着』“うまく利用する”ことで、
必要性を感じなくなったならば、
結果的に囚われなくなったり、手離れていったりというように、
元のこだわり続けていた状態から変わっていったり、
また、反対にその時点で必要であることが再確認できたり
ということもあります。

さらに時間の経過とともに今まで持っていた
既存の価値観や固定観念が次第に変化していきますので、
その結果として、“真の自由自在の生き方”
一歩一歩近づいていくことになります。

ただし、その状態は個人の事情や経験値によってそれぞれ異なり、
そのプロセスも多岐にわたりますので、マニュアル化された
物事として固定的に捉えることが不可能となります。

そのため、言語で表現することは大変難しく、
個人レベルでそれぞれの“感覚”をつかんでいくしか
手立てはありません。

当然のことながら、その”感覚”とは
本人自身にしかわからず、また性別や年齢、
個人の能力とは一切関係なく、

意識の継続と努力次第でさらに磨かれていき、
柔軟性と繊細さも増していきますので、
“感性”という言い方もできます。

この“感性”が鋭敏になればなるほど、
第六感とか直感、またはインスピレーションと言われる、
通常の思考とは“次元の異なる思考”が入り込みやすく
なっていきます。

この“次元の異なる思考”を信頼して行動に移すことで、
今までとは違う展開が生み出されていき、
“正しい判断”、いわゆる識別心の精度向上へと
つながっていきます。

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