憂うつ、喪失感から逃れたい・後半
前半からの続き
営業3課の百貨店セールスマン時代から受けていた
人為的ミスの影響がクリアできないまま・・・・・・
営業1課の後半では新たに、
・クセの強い得意先相手に強引としか言い様のない値引き交渉のプレッシャー、
・その結果、売上げと入金のズレが発生し、会社に言い逃れができず、
売掛金帳簿の照合の際、神経がすり減るような強烈なストレス、
・日常業務に追われ、広範囲の担当エリアに伴う長距離運転による疲労蓄積、
などを抱え続け、肉体的、精神的に限界を超えつつありました。
特に私ひとりで運転していた営業車の恐怖は、思い出すと 今でも背筋が寒くなります。
何しろ高速道路を運転している時、何度も、居眠り運転をして、
車線またぎや中央分離帯のカードレールにぶつかりそうになり、
その度に冷や汗をかいていました。
後で考えたら、事故を起こしてもおかしくない状況でしたので、
よく事故にならなかったと今でも時々思います。
気味悪く、怖いと思われるかもしれませんが、
目には見えない何かに守られていたようにさえ感じられました。
とにかく、会社に行くことが憂うつで、常に重荷を背負っているようで、
心が晴れた日など、ほとんどありませんでした。
そして、入社8年目の夏頃から東京の実家の母の様子がおかしくなりました。
私が結婚した年で、母方の祖母が亡くなり、妻とともに、千葉県まで葬儀に出向きました。
それ以来、母の精神状態が不安定になり、実家の父や祖父母に奇行とも受け取れる、
迷惑をかける行動が頻繁になったようです。
精神科の病院にも通院したようですが、症状はドンドン悪化し
翌年の年末には、焼身自殺するというショッキングな事件が起きました。
母は4人姉弟の末っ子で、幼少時に祖父が太平洋戦争で戦死し、
祖母に育てられた背景もあり、父のもとへ嫁いでからも
祖母をとても愛おしく、頼りにしていたことは、
私が子供の頃から肌で感じておりました。
その精神的な支柱を失ったのですから、
母のショックは誰にも計り知れない程、大きかったように思います。
この時の私は、かなり精神的にヤバい状況でした。
忌引休み明けに職場へ戻ってからも、
なぜか、周りの皆さんの対応が冷たかったのを覚えています。
その冷たく感じられたことが、余計に心を重たくさせる方向へと
自分で導いていったように思います。
仕事で肉体的、精神的に限界を超え 、その上に母の自殺死のショックが重なり、
もう完全に自分を見失ってしまいました。
糸の切れた凧ように制御を失い、何をするにも気力がなえて、
気分転換もできないくらい、極度に落ち込んでいた状況でした。
「仕事も何もしたくない、やる気が起きない」
確かそんな心境でした。
その後にうつ病になった経験もあるので、
自分でもわかるのですが、
この時はマジでヤバい感じで、家庭内の不和の原因を
ほとんど私がつくっていたように思います。
とにかく頭がキレやすく、ささいなことでも怒っていました。
その相手は妻でいつも八つ当たりするというパターンでした。
そして、今だから明確に言えるのは、
この悲惨とも思える私にとって過酷な時期さえも、
“必要な学びのプロセスの1つ”に過ぎなかったのです。
前半の最後に書きました『無知であるが故の無明』は、
肉体的もしくは精神的にとことん追い詰められ、自分のお尻に火がつかなければ、
自分のことがわからない、わかろうとしない、
そのことも含んでいるのです。
人間は所詮、愚かな生き物かもしれません。
しかし、今生で生きている限りは、
その愚かさ、即ち無知であることを1つでも多く、
『気づく』
それが“究極の人生の目的”なのではないでしょうか。
意外に頭で考えるより、こちらの方が自然の流れに沿うのかもしれません。
ただし、この『気づく』のプロセスを誤解されないために言いますが、
1回や2回で得られる、そんな簡単なモノではありません。
例えば「自分の腕に筋肉をつけたい」、
それを実現するためには、おわかりかと思いますが。
1回や2回の腕立て伏せで筋肉はつきません。
「 本気で自分のモノにしたい 」、
それがあなたの真の望みであるならば、
落ち込んだり、失敗と思われることがあろうと、
同じようなことを繰り返していようと、
向き合わざろう得ない、そのことを受け容れるしかない、
それが“内心の腑に落ちる”、その日がいつか必ず訪れます。
つまり、身体の一部として取り込む、同一化するような感覚の経験を
1つ1つ積み重ねていかないと、真の意味で学んだとは言えないと思うのです。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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