心と素直に向き合うためには

“無知“のことをわかりやく例えて言うならば、
月明かりも街灯もない真っ暗な夜道を
懐中電灯の“灯り”という存在すら全く知らないため、
何も持たずに目的地へ向かって歩くようなものです。

もし、このような状況になると、
私たちの多くは、少なからず不安、心配、そして恐怖に
襲われがちとなります。

つまり、私たちが“無知”であることによって
結果としてつくられるもの、
それが『恐怖心』ということになります。

ところが、悲しいことに私たちは“無知”であることさえ
自覚できないために、『恐怖心』を克服する術がありません。

そのために、“自分を責めたり、抑えつけたり、
偽ったり、卑下したり”

また、その場の状況から、“逃げたり、避けたり、
無関心を装ったり”
と、

本来の自分の心の状態から解離しているために、
何らかの出来事が引き金となって、
『恐怖心』 がその都度出てくるという状況になってしまう
可能性があります。

『恐怖心』を克服したいのであれば、
先述のように“無知”を自覚していくしかないのですが、
本やテレビ、インターネット、人から聞いた話など、
必要と思われる情報を“知識”として頭に入れただけでは
おそらく難しいと思います。

というか、よりハッキリ言うならば、
『恐怖心』の克服など、生涯かけても無理だと思います。

『恐怖心』の克服のヒントとなってくるのは、
心で想い、言葉で語り、そして身体を使っての行動という、
“人間の原点に根づいた表現”をすることで、
そこから得た体験や経験にもとづいた知識、
つまり“智慧”を使いこなすことにあります。

よりわかりやすく言うなら、
頭の中に入っているさまざま情報は単なる“知識”で、
その“知識”をもとにして心身を使って表現され、
得られた体験や経験によって“智慧”として
蓄積されるということです。

この“智慧”こそが、
人生の思わぬ時、どん底の時、危機に瀕した時に、
冒頭の懐中電灯の“灯り” とは比較にならない程、
明るく強力に輝く“光”となります。

そして、この“光”こそが“無知”すなわち“無明”を照らす
いわゆる“灯明”となります。

実践の場で“智慧”を使うことを積み重ねて行けば行くほど、
“本物の知識”として身体に血肉化していくことで、
“無知”の領域が少しずつ減少していくことになります。

このことをさらに表現を換えて言えば、
長年の間、個人的にしがみついていた
価値観、固定観念が外れて、もしくはより広がっていき、
幼い子供の心のように純粋に素直になっていく、
という言い方もできます。

この“純粋さ”“素直さ”が重要な要素で、
さらに、大小に関わらず何らかの行動に移す際には、
“初心に返って”とか“初心のつもりで”という
いかに“新鮮な気持ち”で臨めるかが鍵となってきます。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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