好き嫌いを超えたモノ

今回の内容は以前ブログに投稿した近くのお寺で開催された
講演会に参加した時の追記となります。

講演者の方からこんなお話があり、
私の耳に残りました。

既婚女性がお尻を触られた時、
電車の中で見ず知らずの痴漢に触られるのと、
愛する旦那さんに触られるとでは、

その奥さん自身の心の中では、

「受け留め方が全く違う」

というお話をされていました。

もともとこのお話をされた背景は、
夫婦間の信頼関係についてでしたが、

“お尻を触られた”という同じ事象でありながら、
“触った相手が異なると各々反応と感情も違ってくる”
ということです。

ただし、痴漢行為そのものは犯罪ですので、
それを取り上げてしまうと、
お話そのものが最初から成り立たなくなって
しまいますので、ここでは脇に置いてのスタイルを
取らせてもらいます。

このことをより深く内容を考察、検証していくと
次のようなことがわかってきます。

・人間は出来事や現象とともに
 心が必ず反応して感情が一緒に出てくる

・その時に出てくる感情とは、
 傾向として「好き」か「嫌い」かの
 どちらかになってくる

・「なぜ、そのようになったのか?」という疑問を
 自分の心に問うこともなく、また、そのプロセスについて
 振り返えることもなく、気に留めていないケースが
 ほとんどである

以上のようなことなのですが、
実際に私たちはそんなことまで
“気にしていない”というのが
現実ではないでしょうか。

ところで、“気にしていない”ということで、
本当に言い切れるのでしょうか?

「好き、嫌い」は単に”好み”とか”傾向”という
程度であるならば、家族や周囲の人たちに迷惑をかけ、
心配や不安にさせるようなことなどはほとんどありません。

それは角度を変えたなら、個性やその人の持つ価値観、
固定観念という見方もできます。

ただし、その時の心境や場の状況によっては、
もし、理性という歯止めが効かなくなり、
“囚われてしまう”“振り回されてしまう”ということが
続いてしまうと少々厄介なこととなります。

それが俗に言う、
“執着”、”固執”、偏愛、”欲望”
というものになります。

この“囚われてしまう”、”振り回されてしまう”ことで、
まるで罠の落とし穴にハマってしまったかのように、
本来やるべきことが疎かになったり、
集中できなかったり、という不本意な状況に陥ってしまう
可能性が出てきます。

ところが、“心の反応と感情とを切り分けること”で、
自分の“意識の自由性”が生み出され、
心が少しずつ大きく広がっていきますので、

たとえ過去と同じような出来事に出くわしたとしても、
心の受け留め方そのものが既に変容していますので、
従来持っていた価値観、固定観念も同様に変化していく
こととなります。

つまり、“囚われなくなる”、”振り回されなくなる”という
新たな心の状況へと変容が起こってくるわけです。

この心の変容がある程度の領域になると、
今まで好きだったモノが好きでも嫌いでもなく、
“どちらでもよくなったり”

また、嫌いだったモノが嫌いとは思えなくなったり、
同じく“どちらでもよくなったり”という、
どちらを選択してもいいし、選択しなくてもいい、

この“どちらでもよくなったり”について
少し補足するならば、私たちは普段の生活している中で、
お金を含め物的に不足感を感じた時点で、
その状況に流されてしまうと、

知らず知らずのうちに「投げやり」や「ないものねだり」
という想いに囚われてしまう可能性があります。
言い換えるなら、ワガママ(エゴ)が増長する
可能性が高くなるわけです。

しかし、仮にワガママ(エゴ)が増長してしまったとしても、
「ワガママ(エゴ)を修正したい」という本人の意向
出てきた時点で修正は十分可能です。

それが「投げやり」や「ないものねだり」とは対極となる、
「在ること感謝」の取り組みとなります。

この言葉は、私の師事している先生が
よく使われているオリジナルの表現なのですが、
ひと言で言えば、“自分以外のすべての存在に感謝する”
ということになります。

唐突に“すべての存在”と言われても理解するのは
難しいと思うかもしれませんが、
“既にすべてのモノが揃っていて全部が在る状態”
と補足すれば少しはご理解できますでしょうか?

例えば、この地球上にある“空気”もその1つです。

私たちは、この“空気”を当たり前のように“有る”と思い、
普段はめったに意識することなどありません。
そのために感謝の気持ちが薄れるのも当然の結果と
言えるのではないでしょうか。

しかし、本当にそれでいいのでしょうか?

もし、地球上から“空気”がなくなってしまうと、
人間は絶対に生きていくことはできない、
という誰が見ても明白な事態となります。

そして、現代科学の粋を集めたとしても、
“空気”を人間の思い通り都合よくコントロールすることは、
今のところ不可能な状況です。

つまり、私たち人間の“限定された力”では、
“どうにもできないこと”なのです。

もっと厳密な言い方をすれば、
私たち人間はギリギリの線で生きている、
もしくは生かされている、
バランスが何とか保たれているというのが、
もしかすると正確な表現なのかもしれません。

このように“仮説の範囲”のこととして目の前にある事象を
一歩下がって客観的に捉え探究していくと、
人智を超えた叡智と言える『無限なる本当のチカラ』の存在に
一歩でも近づけるように思えてきます。

そのための必要なプロセスが
「在ること感謝」の核心、本質とも言える、
抗わない、抵抗しない、逆らわないという、
『全託』、つまり“素直な行為”になっていきます。

この『全託』の姿勢こそが、
前出の“どちらでもよくなったり”の本質を
的確に表現しているように思います。

まわりくどい説明となりましたが最終的な結論を言えば、
「好き、嫌い」という想いの深奥に在るのは、
『”自分”次第の自由な選択』という
『究極のいい加減』とも言える、
個人意識を超えた感覚のことを指している、
ということです。

つまり、この“自分”こそが個人意識の自我を表わす
“自分”
ではなく、“本当の自分(普遍意識)”へと
シフトしていくことで、俗世での「好き、嫌い」を超えた
『本物の自由』の境地に至るように思えるのです。

よりわかりやすく言えば、最初のうちは無理をせず、
取り終えずは「嫌い」と思われることの中から
1つでも良いので、その時の心の状況をできるだけ注意深く
観察することをお勧めします。

時の経過とともにそれが「嫌いでない」という感覚に
変わっていく、それを少しでもいいので、
“見つけ出す”、”気づく”、”発見する”努力をしていきます。

そして、たとえそれが嫌になったとしても、
途中で諦めたり、投げ出したりせず、
一時休止をしても構わないので、ゆっくりと焦らず、
粘り強く続けることをできるだけ意識してみて下さい。

その結果、ある日ふと自分の心を振り返ってみると、
“「好き、嫌い」の垣根”が低く感じる、
あるいはほとんどなくなっているというような、
今までと明らかに違った“新鮮な感覚”を味わえるか
と思います。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
このブログの感想のコメントを一言でも頂けたら
今後の励みになります。

どうぞよろしくお願い致します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください