他は我に非ず

他人からの心理的な影響を受けず、
また、相手のペースに巻き込まれないためには、
周囲のあらゆる状況に心が反応して動じても、
“ブレない自分”を確立していく以外に
方法はありません。

“ブレない自分”とは“不動心”とも言え、
本や人、インターネットなど外側から得た情報は、
単に頭で記憶した薄っぺらい知識の段階に過ぎず、
決して本質を理解しているわけではありません。

そのため、私たちは起きる物事を軽薄に考え、
知識の収得に重きを置いてしまうことで、
“ブレない自分”、”不動心”といった本来の領域へ
戻ることを困難にしてしまうわけです。

また、“良かれと想い”から起こる独自の固定観念、
価値観による発想や判断、あるいは心の迷い、
混乱から抜け出そうと、他人へお節介、干渉という
“余計な行動”に向かう方も出てきます。

私の経験上、事の大小に関わらず、
目の前で起こる出来事に真剣に向き合い、
そして集中することで、結果的に困難と思われる
ハードルを越えていかない限り、

その先に在る、“ブレない自分”、”不動心”の領域には、
到底、近づくことさえできないように思います。

だから、本人が気づいていようがいまいと、
いつまで経っても同じことを繰り返し、
自我(エゴ)の創り出す現実(幻想)の世界から
抜け出すことができないわけです。

ただ、ここで重要となるのは、
“本人の自由意志に委ねられている”ということで、
本人の選択に任されている、
つまり、“本人の選択次第”ということです。

精神世界の名著、シルバーバーチの霊訓の一節に、

「自分を向上させる唯一の方法は、
 自分を忘れることです。」

という表現があります。

また、『黎明』の著者、葦原瑞穂氏か、
2015年10月に大阪で開催された講演会の中で、

「自分に関心を持たない」

と話されていたことと前者は同じような
意味合いとなります。

今回のブログのヒントとなった『黎明』の箇所には、
次のように書かれています。

かつて道元が仏法を求めて中国に渡った折、
老齢の高僧が炎天下に屋根に上がって
しいたけを求めて干しているのを見掛けて
「そのような雑事は若い使用人にやらせて、
あなたは経典にでも接していた方が良いのではないか」
と声を掛けたところ、その僧は、
「他は我に非ず」
(私がやらなければ私の仕事にはならない)
と答えて、カルマ・ヨガの意味を教えてました。
大いなる生命の創造の御業には、大きな仕事と小さな仕事、
価値の高い仕事と価値の低い仕事といった区別は存在していません。
釘一本が足りなくても家全体の強度に支障が出るように、
ひとりひとりのどのような些細に見える行為も、
宇宙全体を成立させる上で必要不可欠な神の表現に成り得る
ということを銘記しておいて下さい。

(新版 黎明 葦原瑞穂著 太陽出版 下巻 p172L20~p173L6)

ここまで述べてきたことは、
抽象的で掴みどころのない表現として
受け留められたかもしれませんが、
実はとてもシンプルなことなのです。

それは、自分自身の心の内側をよく観て、
ズバリ『魂の成長』を望んでいるか、いないか、
それがこの度の人生の本当の目的を識る上で、
とても重要な基準となります。

そのための足掛かりとなるツールとして、
自分の『想い』『言葉』『行動』が一直線となり、
“自分の目の前に示された事”に、ひたすら素直に真剣に
向き合う姿勢、在り方そのものが、
『カルマ・ヨガ』ということです。

上記の黎明の内容をわかりやすく書かれ、
より理解をわかりやすく深めることができたのは、
下記の文章となります。

他は我に非ず

目の前に示された事を自分がやらなければ
自分の仕事(役割)を果たしたことになりません。
今、目の前に示されていることは、
宇宙全体における自分の役割として示されているのです。

田久保 剛・VEST語録

さらに言えば、“自分の目の前に示された事”に対して、
個人的な先入観や価値観をできるだけ持たず、
信条や感情などをできる限り挟まずに、
ひたすら丁寧に真心を込めて行なう、
如何に集中できるかが焦点となります。

つまり、家庭や仕事場を問わず、自分の居るところが、
霊的修行の場であり、それを自覚しているか否かで、
この度の人生の目的、使命への取り組みの実感が、
大きく異なってくるように思います。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
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今後の励みになります。

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