身内との人間関係は上級編
前回の話の続きとなりますが、
義母との会話でこんな話がありました。
過去の人間関係について義母が話していた時、
「相手の人と話しているうちにその人の心が読める」
そのようなことを言われました。
私は聞きながら話を合わせて相づちを打ちつつも、
釈然としない違和感を感じていました。
よくよく話を聞いていると、
周囲の人から予め聞いていた相手に関する情報を
そのまま鵜呑みにし、それを足がかりにして、
話している相手の態度や様子を伺いながら、
タイミングを見計らって
“相手の痛いところを突く”、
そんな手法でした。
それが義母からすれば、
「相手の心が読める」という
得意げな言い方だったのですが…
ただ、冷静に考えてみたらわかることですが、
このようなことをして
一体何の意味が在るのでしょうか?
そこで重要ポイントとなってくるのが、
『動機』ということになります。
つまり、
「なぜ、そのような行為に至ったのか?」
ということです。
前提や経緯などがまったく不明で、
既にご本人の記憶もあやふやとなっているため、
定かなことは言えませんが、
話を聞き私なりに思ったのは、
おそらくご本人自身も悪気はなかったと思うのですが、
相手の気持ちや考えに対して配慮や気遣いも十分でないまま、
自己顕示欲や自己満足という『動機』から、
相手より優位に立ちたい、負かしたい、
つまり“優越感に浸ること”が目的だったように仮定すると、
「相手の心が読める」と言ったことと繋がりました。
私たちは物質中心の社会で生きている限り、
人や物事をすべて分けて考えていくことが当たり前となり、
自己顕示欲、自己満足、優越感などと言った、
いわゆる“エゴ”は誰でも多かれ少なかれ持ち合わせています。
ここで大切なことは、その“エゴ”と向き合う時が
人生の中で数え切れない程やって来て、
自分なりの対処をしていかなければ
ならないということです。
もし、それを怠ってしまうと、
人生そのものが“エゴ”にどっぷり浸かり、
そのことさえ気づかないでいることで、
“エゴの世界”から抜け出せず、
そのまま生涯を終えてしまう可能性すらあります。
このようなことから前出の義母との話は、
それを思い起こさせるような内容だったように思います。
つまり、それだけ“エゴ”とは私たちが思う以上に
身近なところでも巧妙な手口で入り込んでいる
ということです。
ただし、私たちは“エゴ”に対して、まったくお手上げだ、
ということでは決してありません。
また、このような書き方をすると“エゴ“を敵視して
悪者扱いしているように思われがちですが、
実はそうではなく、その向き合い方次第で変化を
もたらすことが可能となります。
端的に言うなら、どんなに“エゴ”にまみれた状況であろうとも、
できるだけ早く気づき距離を置くようにする。
これによって自分の本来の姿、気持ち、意識状態を
取り戻すことができるということです。
ただ残念なことに義母の場合、
長年に渡って築き上げた価値観、固定観念にこだわり、
固執する傾向が見受けられたのと、
30年近くのご縁がありながらも、
これまで私と同じ方向性の接点を見出せる機会に
恵まれなかったように思います。
それでも、人との出会いには必ず何らか意味があり、
ましてや身内との関係についてはさらに特別なものが
あるように感じています。
他人との人間関係にはない、
より密度の濃い、そしてより難易度の高い、
上級編と言えるような状況に遭遇することで、
予想もできないような形で心の忍耐強さを試され、
鍛錬してもらっているようにさえ感じるのです。
そのような視点で義母を観ていくと、
私の心の成長を強力にサポートしてくれた、
“ありがたい存在”、“協力者”だったことに気づかせて
もらったように思います。
義母の認知症は時間の経過とともに進行していますが、
長年お世話になり支えてもらった恩返しの想いを含め、
どんな場面であろうと私が向き合うことになった時に、
何ができるかを問い続け、少しでも真心ある行為を
実践できたらと思っています。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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