「今を生きる」やっぱりとても大事!!

認知症の義母と短期間でしたが向き合ったことで、
印象として強く残ったことがありましたので、
そのことについて触れていきたいと思います。

まず補足として前回のブログで取り上げた、
“相手の完全性に意識を合わす”がベースとなっていた
ことは確かだったように思います。

もし、それができなかったならば、
相手(義母)の雰囲気が“変わる”ということも
期待できない状況でした。

むしろ反対に期待の想いにと囚われ、
引っ張られてしまったら、
こちらが焦りや不安と言った“心の乱れ”
創り出してしまう危険性もあったわけです。

また、この“心の乱れ”によって、その場で“起こっている
状況を正しく捉えること”
が困難となってくるケースも
考えられます。

そして、この“起こっている状況を正しく捉えること”は、
最終的には最も必要とされる情報にヒットする確率が
高まるように経験上感じます。

実際の義母と何度も同じ内容の会話の中から
ハッキリと見出だせたのは、

「過去に引きずられて生きている、
 そこから抜け出せない」

「記憶に刻まれた思い出を抱えながら生きている」

「今、現在から離れて過去が今になってる」

以上のようなことでした。

つまり、私たちが通常何気なく表現したり思っている、
“「過去、現在、未来」の時間感覚がなくなりかけている”、
そのような受け留め方となりました。

“過去の出来事に心が縛られている”
そのような言い方もできるかと思います。

私が実際に行なった対応は、
話を過去から現在、今に戻すような感じで何度も、
「ところで、今は何をしていますか?」
その言葉を繰り返し義母に投げ掛けていただけでした。

言い続けていたある瞬間、義母の表情が、
“ハッと我に変える感じ”となり、
「何かに気づくことができたか」
一瞬期待しかけましたが…

ところが、次の瞬間に元の表情に戻り、話もまた同じ過去の
出来事へと戻ってしまいました。

そうしていくうち、このように同じようなことを
繰り返される状況は、今という瞬間へ向き合うことの大切さを
義母の言動を通して、

「その重要性を私自身に伝えているメッセージなのでは?」

と思える心境へと私自身の心が変化していきました。

実際そう考えたことによって、
私の心の中では、
“スッキリした納得感”という
感覚がありました。

それは同時に、過去という幻想に縛られている
義母の姿が哀れで悲しく思いつつ、また反面教師とも言え、
さらにこの度の人生で本人にしか歩むことができない、
貴重な経験を学んでいることへの“畏敬の念”が出てきた
ように思います。

それは言葉でうまく表現できないことではありますが、
義母の姿と言動は、人間独自の視点で捉えた認知症の
病状や症状という枠組みにスポットを当てるのではなく、

親が幼子をただひたすら愛しく優しく見守るような、
純粋な愛の視点を持つことの重要性が示されたように思います。
また、それは人間が創造した宗教や思想という観念を超えた、
『神の愛』というような表現もできるかと思います。

これまでに私のブログで幾度となく、
“今という時の重要性”について触れてきましたが、
今回、私が真剣に義母と話ができたことがキッカケとなり、

さらに義母の想念と同調、共鳴することによって、
今という概念が私の心の中でブラッシュアップされ、
新たな向き合い方へと変化した実感が感じられました。

見方の角度を変えて言えば、義母は私の心を鍛えてくれた、
“ありがたい協力者”であったということです。

義母が“ありがたい協力者”で在り続けたなら、
義母と今までにない新たな関係が築けると思えると、
年甲斐もなく“ワクワク感”さえ感じられるように
勝手ながら思っています。

確かに義母が今回の出来事の重要な役割を担っていたことは
事実ですが、忘れてはならないのは娘である家内と義弟という
家族の温かなサポートと存在があったからこそ、
そのような深い気づきに至ることができたように思います。

そんな状況も加味すると、この度のことは私ひとりでは
とてもできない貴重な経験だったと思えるのです。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
このブログの感想のコメントを一言でも頂けたら
今後の励みになります。

どうぞよろしくお願い致します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください