『気』についての考察
「元気」「やる気」「寒気」「嫌気」「雰囲気」「気合い」「気持ち」「気配」
これらの言葉にはすべて『気』という字の組み合わせとなっています。
すべて形のないもの、見えないものですが、
「身体の内側から感じるもの、外側から感じられるもの」を表わしています。
一方、精神世界、スピリチュアルでは『波動』という言葉がよく出てきます。
この『波動』は読んで字のごとく、心の動き、バイオリズムのような
「波のような動き、波形」を表わしていて、
電磁波、(超)音波、振動波、光波、熱波といった、
同じようにすべて形のない、見えないものを表わしています。
『気』との違いは、対象物によっては専用の機器類を使用することで、
計測や測定といったことが可能なことです。
しかし、先程の『気』を使った言葉の身体の内外から
感じ取れるものとは異なり、“物質的な性質”という側面で
捉えてしまう傾向があり、どうしても“別のもの、異なるもの”
という見方になりがちです。
ところで、自然界にある、もしくは人工的につくられる、
電磁波、(超)音波、振動波、光波などは私たちの心身とは
果たして無関係な存在のでしょうか?
形のない、見えない、触ることができないだけで、
この地球上に存在していることは事実なので、
実際は身体のすぐ側にあったり、あるいは身体の中を通り抜けたり、
また、共鳴、共振していたりする可能性も十分にありながら、
残念なことにそれを身体の五官で感じ取ることができない、
という見方もできるわけです。
つまり、前者の『気』と後者の『波動』、文字は異なりますが、
本質的な意味は同じです。
もっとわかりやすく言えば双方とも『エネルギー』という存在なのです。
ただ、私たちは、そのようなことまで認識したり、
理解するしたりする必要性を感じていないだけなのです。
その前提となっているのは、”物事を分ける、区別する”という考えから
生み出された、「価値観」や「固定概念」といったものです。
この「価値観」や「固定概念」を持つことで、
日常生活という物質に囲まれた世界の中では
“基準”、”柱”となる考えという側面では重要なのですが…
ところが、形のない、見えない、触ることができないという、
ある意味、分離感のない調和が形成されている『ひとつ』という世界では、
それが足かせになる可能性が出てきます。
ですから、前出の『気』は『波動』でもあり『エネルギー』でもある。
逆もまた然り、というように言葉の意味を超えた、
本質の意味で捉えていかないと『ひとつ』の世界を理解するのは
難しいことだと思います。
“難しいこと”だから、面倒くさい、全く興味・関心がない、
根本的に合わない、頭が混乱する、などと思いがちですが・・・
本当の意味で自分らしくこれからの人生を生きていきたい、
そのことを心の底から本気で望んでいるのであれば、
コロナ禍や自然災害が起きている今の地球全体の動静を観たら、
『ひとつ』の世界を理解する最後のチャンスかもしれません。