『自分』とは誰なのか?

今回のブログは「『自分』とは誰なのか?」
というテーマですが、読者の皆さんは、
どう思われていますでしょうか?

著書「新版 黎明」上巻の序章の次に、
下記の短い詩が記されています。

自分とは何でしょうか

なぜ 意識というものが在るのでしょうか

どうしてあなたは 今ここにいるのでしょうか

人生には目的があるのでしょうか

私達の生活している この世界の本質は一体何なのでしょうか

世界は何のために存在しているのでしょうか

(新版 黎明 葦原瑞穂著 太陽出版 上巻 p10)

もし、哲学っぽい、宗教みたい、もろスピ系、
関心がないなどと受け留めをされるのでしたら、
考えをより深く掘り下げることが
必要なのかもしれません。

恥ずかしながら、実は私も最近まで
その程度の認識でいたのですが、
“ある事”がキッカケで考えが変わりました。

さらにその“ある事”の前提となったのが、
同じく「新版 黎明」下巻 終章の後に記された
下記の詩でした。

私の探しているものですか

それは形の有るものではありません

形の有るものは それの本来の姿ではないのだから

それは名前の有るものでもありません

名前の有るものは 本当は そこにないのだから

真理と愛と叡智と

これらの言葉が 世の初めに発した響き

これらの言葉の 内に携えている光

これらの言葉の 源に在る力

限りなく美しく この上なく崇高な海のように

激しい嵐の中にも

荒れ狂う高波の下にも

静かにそれは拡がっていて

宇宙の一切を包み込んでいるのに

ひとつの原子の中にも その総てが在るもの

久遠の昔 そこから私はやって来て

永遠の時を掛けて 私はそこへ還って往く

それが 私の求めているものです

(新版 黎明 葦原瑞穂著 太陽出版 下巻 p332~333)

この詩の初行から5行目まで、

私の探しているものですか

 それは形の有るものではありません

 形の有るものは それの本来の姿ではないのだから

 それは名前の有るものでもありません

 名前の有るものは 本当は そこにないのだから

この一節を繰り返し何度も読んでいるうち、
もしかして、このことって、
“自分の肉体も当てはまる”、
と考えに至った瞬間、

なぜか次に、

“自分のお墓はいらないのでは?”
そんな想いが心の中から出てきました。

この詩から“あの世”を想定したからか、
宗教、特に仏教の世界で決まり事?となっている、
位牌やお墓に刻まれる“戒名”は、

「”あの世”で通じるものなのか?」という、

より突っ込んだ疑念も出てきました。

“あの世”に行く人は仏教信者だけてはなく、
キリスト教、イスラム教、無宗教など、
さまざまな宗教、宗派、ケースがあり、
さらに国家や人種、言語というカテゴリーを
加えていったら、

すべてそれらは“この世の人間の基準”であって、
“意識だけのあの世”では、
“全く必要がない、存在しないモノ”
という納得に至り、

“だったら自分のお墓はいらない”

という結論に達したのでした。

次に下記のインドの聖者アンマが語った、

人間として 生まれる目的は、 神を識ること、
つまり、 真の自己を識ること

この言葉に繋がっていったように思います。

この「真の自己」とは『本当の自分』
『普遍意識』つまり神のことであり、
それを識ることが、人生の究極の目的
ということなります。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
このブログの感想のコメントを一言でも頂けたら
今後の励みになります。

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