試練だからこそ学べる

霊的真理(スピリチュアル)に関する本の中でも、
名著と言われている「シルバーバーチの霊訓」で、
真理を探求する者は常に地上人生で
厳しく苦しい状況と向き合っていく、
そんな表現が本編の中で至る所に出てきます。

当初、それを読みながら、
どこか他人事として受け留め、
自分には関係ないことと
考えていました。

しかし、同類の著書「黎明」の中に、
「識った者の責任」という内容があり、
“カルマの法則”によって現実世界で
必然しとて展開されていたのですが、

後々になって、それが真実であることを
経験を通して実感することで、
ようやく理解に至りました。

そんなプロセスを見ていくと、
痛みや苦しみを伴うことで、
人によって見方によっては、
一見「Maso(マゾ)」と勘違いされやすい
側面もあります。

ところが、心の底の深いところ、
“魂の視点”からすれば「Maso(マゾ)」とは
全く異なって捉えていることが理解できます。

私自身も「魂とは何ぞや?」と問われても、
まだ未熟者故、言葉でうまく明確に表現は
できませんが、そんな私でも感覚として
わかってきたことがあるのも事実です。

「識った者の責任」とは、
この世の真実、からくりを識った以上、
それを身を持って経験することが不可欠であり、
決して責任逃れをすることができません。

わかりやすく言えば、真理の学びをするからには、
その学んだ知識を自分の日常生活に置き換えて、
行動を通して経験していかないと、
必ずそのツケを払わされることになるわけです。

それが“カルマの法則”の一側面であり、
今生の人生での課題として1つ1つ学んでいき、
成就して乗り越えていかなければならない、
“数々の試練”とも言えます。

また、より広く大きな“魂の視点”からは、
究極の人生の目的、使命へと万進していく
プロセスという言い方もできます。

ところで、そのようなことを知っている人は、
ほとんどいないに等しく、現実的な考えとして、

「楽な道を選んでいこう」

という傾向にあるように思います。

つまり、それは人間の視点という
個人的な狭い視野に基づく
“不完全な視点”であり、
“魂の視点”とは相反することに
気づいていない状態と言えます。

「自分を甘やかすな!」

「道に迷うな正道を歩め!」

「利己的になるな!」

そのようなキツく厳しい言葉を
仮に繰り返し百万回唱え、また言われようと、
“改心できない”、それが人の心のように
思います。

頭や知識という薄っぺらで表面的なものでなく、
辛く厳しい経験することから身を持って得られた
モノこそが、智慧叡智として表現された時、
ようやく真の理解へとつながっていくように
思えるのです。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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