『究極の客観視』とは

私たちは人生を共にしてきた肉体ついて、
“自分のものである”、”自分が管理者である”
という認識をほぼ100%の人々が、
当然のごとく持っているように思います。

また、実際に“自分の想い通り”に身体は動かせるから、
日常生活や仕事も自ら進んでできるし、
病気になったり、怪我をした時も、
治療をしようと行動に移すことができます。

しかし、人として生きている限り、
人生でさまざまな出来事と遭遇することで、
山あり谷ありという順調な時もあれば不調と
感じられる時もあるかと思います。

つまり、私たちは起こった出来事に対して、
どうしても心や感情が反応してしまい、
“自分の想い通りにいかない”“決して望んではない”
さらには、“ラッキー”“アンラッキー”
“奇跡”、”偶然”と言えるような、
受け留め方をしてしまうわけです。

また、そのような自分の想いに対して、
何の違和感や疑問を抱いていないというのが、
実情のように思います。

ところが、少し冷静になって振り返って観ると、
自分の周りで起こっている出来事に対して、
“無知で無防備のまま”だったことに気がつくと、

いたずらに多くの年月を費やしていき、
もう既に人生の終わりに差し掛かり、
虚しさや侘しさといった感情が出てきて、

「これまでの人生で何をしてきたのか?」

と真剣に自問自答するように問い質しても、
“本当の答え”は見つからないという状況に陥り、
自分自身を見失う方向へと進んでしまう可能性が
出てくるように思えるのです。

私のような60代になってくると、
“終活”という言葉をよく耳にします。

この”終活”なのですが、最近になって、
スピリチュアルと共通している部分が
多分にあるように思います。

その1つとして、
「決まったマニュアルがない」
ということです。

確かに”終活”は自分のお金や所持品の整理という、
形式的、物理的な生前整理については、
ある程度の枠組みや基準というものがあり、
個人の判断と行動が原動力となっていくことで、
現実として進めでいくことができます。

しかし、最も肝心で大前提となるのは、

“「死」に対する受け容れ”、

それではないでしょうか。

同時に最もデリケートで難しいと思われ、
避けたり、敬遠しがちなことでもあります。

ところが、これらのことも共通面の1つとして、
スピリチュアル分野の概念を取り入れ、
地道に身についていったならば、
必ず道が開けて解決策を見出だせる可能性が
出てくるように個人的経験から言えるのです。

結論を言えば、

真剣に“「死」に対する受け容れ”をするのであれば、
自分の肉体の中に在る“魂こそが本物の実態”であり、
肉体そのものは、レンタルした借り物のような、
着ぐるみのようなものであり、

「いつかは返却しなければならない、
 手放さなければならない」、

そのことを十分に理解、認識する必要があるわけです。

その唯一の手段となるのは、

「心の気づき」つまり「客観視」であり、

それ以外には存在しません。

現世においては「死」が最終の「気づき」であり、
『究極の客観視』
ということになります。

ただし、ここで最も注意しなければならないのは、
一回や二回で終わるという簡易なものではなく、
この世に「生」がある限り、

たとえ何度も心が折れたりめげたりしようとも、
ひたすら根気強く、あきらめたりせず繰り返し、
身につけていく努力を惜しんではいけない、
ということです。

それは紛れもなく、『悟り』へと近づいていく
“正しい道程”であると確信しています。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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