「状況は常に変わり続けている」客観視の真実

今回のブログのタイトルを、
「状況は常に変わり続けている」
と書いたのは最近感じている、
私のある感覚と想いからでした。

それは心や身体の状態をさまざな出来事を通し、
できる限り客観的に観察することによって、
出来事に反応して出てきたさまざまな感情が、
少しでも心の中で距離が置けるようになり、

目の前で起こる出来事が時間の経過とともに、
まるで紙芝居を観ているように
どんどん切り替わっていくことでした。

仮にその日の体調やコンデション、
他人や周囲の環境など影響を受けてしまい、
巻き込まれて囚われるような状態に
なってしまった時でも、

多少の時間を要するものの、
いつの間にか抜け出している、既に終わっている、
そのような感覚が感じられるようになりました。

「まるで走馬灯のように」
「空の雲が風に流されるように」
という表現がありますが、
いつの間にか過ぎ去っているという意味では、
似ているような感じにも思えます。

これは私の推測ではありますが、
当初はある出来事に対して、
まるで条件反射の如く、すぐに心が反応して
瞬時にもろに感情が出てきたのが、

自分を責めそうになったり、
卑下しそうになったりと、
最初の頃はなかなかなうまくできず、
苦労と忍耐の連続ではありましたが、

自分の心の状態を繰り返し観察していくうち、
起きた出来事と自分の心との間に、
「すき間」のような“何もない空白の部分
徐々にできていったように思います。

それが一種の心のゆとりとなり、
冷静で落ち着いた行動へと、
変容していったように思います。

このようにそれまでと違った心境になってくると、
出くわす出来事そのものを避けたり、
無視するといった“必要性もなくなり”

むしろ、それが私という身体を通して、
この世で生かすためのヒント、キッカケ、
成長の糧
という“転換する見方”ができるように
なっていきました。

先に感謝や謙虚な気持ちでありがたく
受け入れた方が、後になっていつの間にか
点と点が結びつくように、“腑に落とす機会”へと
つながっていきました。

どうやら、目の前で起きる出来事というのは、
その本人にとって最も必要とされ絶妙な
タイミングで起こりべくして起こる、
言わば、からくりごとのようにさえ
思えてくるのです。

その出来事について心と身体を使って、

「どうそれと向き合うか」

「何をそこから学ぶのか」

「そこから何を識り得るのか」

といったことを行えるかどうかで、

人間の価値観や固定観念、先入観といった
既存の限定された枠組を超えて、
これまでの人生そのものの見方、考え方、
そして在り方が変わっていったように思います。

これはとても微妙で繊細なな感覚で、
加えて理解が難しいかもしれませんが、

それこそが、

「状況は常に変わり続けている」

と思えるようになった真意という
気がしています。

このようなことを言っていると、
私が“心の客観視”をマスターでき、
目の前で起きるあらゆる出来事に、
冷静に常に対応していると思われがちですが、

正直に言ってしまうと、

“実はそうではありません。”

皆さんと同じように、最悪と思った状況を見た途端、
気分が落ち込み、心ここに在らずとなり、
とてもしんどくなり、

「お~い何とかしてくれ!、助けてくれ!」

と思ってしまったこと数え切れない程あります。

そんな切羽詰まった、瀬戸際、土壇場の状態
となったとしても、助けられるのは結局
「自分」しかいません。

つまり、すべては「自分」次第によって状況が
変わっていくわけで、本当に実感として受け容れ
わかっていれば、

「状況は常に変わり続けている」

それが自分の心を通して“客観視”しつつ、
さらに明確に感じられるように思います。

同時にそれは“自覚”という“自己責任”
伴っていることを忘れてはならないことを
とても重要なので補足しておきます。

ちょうど今回のプログを書いていた時、
インドの聖者アンマの言葉が目に留まり、
とても強く印象に残ったったので、
下記に引用致します。

実のところ、心は存在しません。
探してみても、見つからないでしょう。
飛んでいった鳥の痕跡をたどるようなものです。
心を完全に満足させるために与えられるものが何かありますか?
心とは私たちの創造です。
これを理解したなら快不快もまた、自分自身の創造であることが
わかります。
つまり、得るものも失うものもないのです。
脚本家が自分の劇を見ているなら、悲劇の場面でも泣くことは
ありません。
悪魔が突如として現れ、高笑いの声をとどろかせても、
驚きもしないし、気も失いません。
脚本家はすべてを傍観してながめます。
すべてが自身の創作だからです。
同じように、世の中の性質を理解してしまえば、
私たちはすべてを傍観して見ることができます。
平安を求めて探し回ることはないのです。
自分自身の中で体験することができるでしょう。

                      ーーアンマ

(マートルヴァーニ日本語版 2014年12月号 巻末より)

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
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どうぞよろしくお願い致します。

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