自殺が割りに合わない本当の理由 前半

今年だけ特別な現象というわけではないと思うのですが、
今年に限って言うならば、俳優や著名人だけでなく、
一般の方についても自殺の報道が目につく、
そんな気がいたします。

コロナ禍の影響で、社会に暗い影を落としている、
そのような背景もあるかと思いますが、
個人的には“異常さ”を感じずにはおれません。

人それぞれにさまざまな事情があるにせよ、
なぜ、自殺を強行してしまうのでしょうか?

ついそんな風に思ってしまいがちなのですが、
ご本人しかわからない、辛く苦しく耐えられない状況があったから、
結果としてそのような行為に及んでしまったとしか考えられません。

私の母も自殺でこの世を去ったので、
ある程度のことを察することはできますが・・・

それでも自殺について、
どう考えても合点がいかない点があるのです。

それは素朴な疑問なのですが、

①私たちの肉体は私たちのものなのでしょうか?

②自ら肉体を傷つけて命を断っても赦されるのでしょうか?

③命と引き換えにすべてが解決するのでしょうか?

④自殺したら逃げることができるのでしょうか?

これらのことを冷静な目で客観視してみたら、
私なりに“違和感”が出てきました。

その真意は“究極のわがまま”
もしくは“究極の傲慢な行為”なのではないか、
そのように感じられたからのように思います。

①、②の疑問について率直に思うことは、

生まれた時、そして死ぬ時、
つまり、最初に肉体を持った時、最後に肉体を離れる時、
おそらく「自分のものだ」という感覚とか執着心はもっていない、
そのように思うのです。

ただ、その間の生きている年数を肉体とともに過ごすため、
「自分のものだ」という感覚が当然のようになってしまった、
それだけのことだと思うのです。

このような解釈からすれば、
「当初から人間の肉体は借り物に過ぎない」
ということが言えるのではないでしょうか。

もし、その通りであるならば、
自ら肉体を傷つけたり、まして破壊することは論外となる行為で、
“借り物”であることを念頭に置いて意識したのなら、

生きている間は、病気や怪我などに気をつけて、
健康な状態をできる限り維持していくという、
管理責任があるのではないでしょうか。

そのように考えると、さらに次に出てくる言葉は、

「何のために」、続いて「なぜ、地球にいるのか?」

こんなふうになるかと思いますが…

ご参考までに私なりの見解を述べるなら、
このような内容になります。

この地球上には、76億人を超える人間がいます。
ひとりひとりの生き方、考え方、感受性、性格、性質などは、
すべて異なります。

視点を変えて言えば、
「ひとりひとりが異なることが前提で
この世に生まれてきている」

という見方もできます。

また、それは「ひとりひとりが異なる役割、使命を携えて、
この地球でその人しかできない貴重な経験を積むために
担当の場所にいる」、

そのような言い方もできます。

つまり、あなたは今、その瞬間、その場所で
あなたの肉体を通して、あなたにしかできない
“貴重な行為”をしているわけです。

“貴重な行為”は、一見して小さくて誰にも評価されない、
つまらない、また人の役に立たないと思われる行為だとしても、
エゴとは異なり、純粋な愛の想いから発せられた行為であるならば、
“オリジナルの尊い価値が在る”ということなのです。

そして、“オリジナルの尊い価値”を創造していくという、
重要な責任を担い、すべてを承知の上で、
この時代のこの地球に自ら選択して生まれてきたのです。

ただし、神様の計らいかどうかわかりませんが、
私たちはその過去の記憶を全部忘れて生まれてきています。

しかし、全部忘れてしまったお陰で、
すべて初心から行為を通して経験するしかなく、
その方がかえって人生を最も効果的にそして濃密に学べ、
さらに前進するため喜びも味わえるのです。

なお、前出の③、④の疑問については、
引き続き後半で述べていきたいと思います。

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