極限状態からの学び 1/4
前回に貼り付けたYouTubeの楽曲は、
お聞きになられたでしょうか?
話が前後しますが、私は、この曲を初めて聴いたのが、
2014年12月に娘が大学の卒業を控え、合唱団を引退する
最後の定期演奏会のアンコール曲でした。
会場には多くの観客が居ましたが、人目もはばからず泣いていました。
ちょうど、その時が私にとっても、節目の時期だったので、
余計な雑念が洗い落とされて、スッキリとした気持ちで勇気をもらい、
新たなチャレンジへの入口へとつながっていきました。
話を切り換えて、給料遅配のN社を退職することを決断したものの、
次の転職先を決める時間的な猶予はありませんでした。
ハローワークかどこかは忘れてしまいましたが、
数社しか面接は受けなかったように記憶しております。
自分の中に積み上げてきた、”食品” “健康” “安全” “安心” “自然”という
キーワードをベースにアプローチしていったように思います。
最終的に、大阪の食品衛生のベンチャー企業、F社に再就職しました。
ここでも、天然素材でできた製品を販売する、
という営業の仕事に就きました。
しかし、その会社に決めたものの、新たな身体の変化に対する不安を
抱える事になりました。
![](https://hikariari.com/wp1/wp-content/uploads/2020/04/CIMG0807-300x225.jpg)
それは、N社勤務の後半の時期に症状が出てきました。
どうゆう症状かと言いますと、精神疾患の1つである、
パニック障害(パニック症候群)でした。
私の場合、朝の通勤時、満員電車の中で突然、発症しました。
確か冬の時期で、コートを着たまま、
いつも乗車する電車に乗ったのですが、
電車のドアが閉まった途端、
急に暑苦しさと息苦しさに襲われ、着ていたコートだけなく、
上着まで車内で脱ぎ、さらにネクタイまで取った、
というありさまでした。
それ以来、営業で電車を使用する際でも、
満員電車に乗るのが、怖くなってしまいました。
周囲の人には言い訳をつくりながら、
何とかごまかし、やってきたのですが、
F社に入社してから、パニック障害の症状が常態化して、
何度も冷や汗をかきました。
最も印象に残っているのが、東北地方の取引先に主張した時、
移動の飛行機の中で出発直前に発症した時は大変でした。
その時は頭が混乱しかけ、客室乗務員に飛行機を降りたい、
と言い出しかけ、着ていたコートや上着を脱ぎ、
Yシャツ1枚になって、室内空調を自分の身体に向けて、
何とか気持ちを落ち着かせて席に着く事ができました。
そんな症状を抱え悪戦苦闘しながらも、期待に応えられず、
結局1年でこの会社はクビになりました。
その後は、食品ギフトのE社、パソコンソフト卸売のP社、
衛生製剤及び機材卸売のR社と数ヶ月単位で、
会社を変えていきました。
いずれも中小企業で、面接時に会社の雰囲気に違和感を感じましたが、
家族を養うため収入が最優先でしたので、
適性に合った会社を選ぶ余裕や時間も全くありませんでした。
この時点での私は、先が見えず、迷いに迷い続け、
落ち込んだままの暗い気持ちで毎日を送っていたように思います。
家族の生活を維持するのに、どうしてもお金が必要だった、
しかし、仕事についていけず、また採用された会社での人間関係も
芳しくありませんでした。
私が会社を転々と変える理由は、それらのことからでした。
まさにN社時代のA支店長が最後に言われた、
「会社に残るも地獄、去るも地獄」
この言葉そのものの状態でした。
こんな私に手を差し伸べてもらう人など、どこにもいない、
それでも何とかしなければならない。
そう思い込めば思い込む程、絶望感とともに、
“戦うしかないパターン”を繰り返していました。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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