極限状態からの学び 2/4

前回の1/4からの続き

最後に勤務していたR社は、3ヶ月の試用期間で、
女性社長からクビの通告を受けました。
予期せぬ事でしたので、動揺しましたが、
私は一か八かの賭けに転じました。

それは、社長の親戚の方で、度々訪問されていた
大手食品会社の専務取締役のS氏とお話する機会が
何度かありました。

そこで私は、S専務にお時間を作って頂き、
正直に実情をお話致しました。

どうにか私の想いが伝わったようで、
その大手食品会社のY社とご縁をつないで頂き、
何とか入社できる運びとなりました。

Y社は全国展開の食品製造販売の上場企業で、
業績を順調に伸ばしていた会社でした。

確かに収入が増え、嬉しかった反面、
配属されたのは百貨店の部署でしたので、
20数年前、あのB社大阪支店の百貨店時代を思い出し、
“嫌な予感”がしました。

B社時代の慣れもあり、楽観視しておりましたが、
実情は想像を絶する厳しさでした。

ひと言で言うなら、何からなにまで、“能力主義優先”でした。
まず、この会社は中途採用の社員もいましたが、
圧倒的に生え抜きの若手社員が多く、
しかも、みんなバリバリ仕事のできる社員ばかりでした。

直属の上司は、東京の支店に居るM部長で、
携帯電話もしくは、PCのメールで指示が頻繁に出る、
そんなスタイルでした。

私は入社した時、既に40代半ばを超え、
もともとスキルがなかったので、
当初から周りのスピードや環境についていく事が
できませんでした。

“明らかに、私の能力を超えた職場”でした。
自分の仕事もおぼつかない状況の中で、
事務所内の若手の1人が東京へ異動となり、
その引き継ぎを受け、仕事量は一気に増えました。

名古屋から以西の西日本、九州の鹿児島県までの百貨店、
約60店舗を担当しました。ひと月の半分は、出張で出ていました。
ノートPCを持ち歩き、出張先のホテルでも、夜遅くまで、
資料や売上げ報告に追われていました。

営業活動に加え、百貨店の催事販売にも加わりましたので、
休む間もなく働き続けていました。

この頃、上司のM部長より、
「生え抜きの若手社員は将来があるから、 彼らを優先して欲しい」
というような、私に対して戦力外通告とも
受け取れるようなことを言われました。

私はショックでしたが、もっと頑張れねばと言う思いから、
自分にプレッシャーをかけ、確かピーク時は、
1日の労働時間は15時間で睡眠時間は4時間程、
休日は、ひと月あたり2~3日の状況まで追い込みました。

さらに、前回にも書きました、パニック障害の発症にも相変わらず、
悩まされました。

朝の通勤時でも、ラッシュを避けるため、ほか人より
1時間近く早く、大阪事務所に来てました。
また出張の移動時、飛行機や新幹線の乗る時は、
症状が出るのではと思い、いつもビクついてました。

今まで生きてきた人生で、この会社に在籍した1年半の月日が
最も辛く苦しい期間だったと言えると思います。

当然のことながら、私のネガティブ思考は、かつてない程のスピードで
加速そして増大していきました。

元からあった、20年以上、自分でも知らずしらずの間に溜め込み、
加えて抑えつけていたエネルギーが加わることで、
コップに入れた水を止める手立てが見つからず、
あふれ出すように、限界を一気に超えてしまいました。

次回のブログに書きますが、その結果として、
何もしたくない、やる気がない、“完全無気力”という状態に陥りました。

しかし、この時点ではわからなかったのですが、
歳月の経過とともに、よくよく冷静になり振り返ったことで
明確になったことがありました。

それは、この一連の出来事についてのプロセスを省みると、
私がY社のS専務に取り入って助けを求めたことから端を発していました。
家族のために家計を支えようと、ただそれらのためだけに
選択した結果だったのです。

「自分の行ないが自分に返ってきた」
また、こんな言い方もできます。
「原因と結果の法則」、「作用反作用の法則」、「因果応報」
さまざまな表現がありますが、
『最後は自分で責任を取らなければならない』
ということなのです。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
このブログの感想のコメントを一言でも頂けたら今後の励みになります。
どうぞよろしくお願い致します。

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