妄想とスピリチュアルとのつながり 後編

不思議な妄想のもう1つが「生命エネルギー」について思ったことでした。
何らかのキーワードやイメージをキッカケに、直感や思いつきに近い感覚で
そこにスポットを当てるような感じでした。

妄想にふけっている時の状況は、
一種のパラレルワールドのような感覚で、同じ自分でありながら、
その時に限って別の自分の意思が働いていたような、
日常の顕在意識とは異なった感覚でした。

具体的にどのようなことかと言いますと、

「心臓や他の内臓、手足が動き続けられる、
 そのエネルギーはどこに在るのか?」

「なぜ、ケガや病気をしても治って回復し
 元の状態に戻れるのか?」

「人間が思考する時、脳の神経細胞同士がつながる
 パルスのエネルギー源とは何なのか?」

こんな考えても仕方ないような、日常のごく当たり前のことで、
「くだらない」「つまらない」「どうでもいい」と思われておかしくない、
そんなことばかりでした。

しかし、よくよく考えてみるとわかるのですが、
すべて結果としてわかっていながら、
実際には“目では見えないもの”“身体の感覚で感じられないもの”
もっと詳しく言えば“人間の五官で捉えられないもの”ばかりです。

さらに発想を進めれば、人間の五官以外の私たちが知らないところに、
“本当の真実が在る”
そんな言い方がてきるかと思います。

著書「黎明」に人間の本質については、下記のような表現があります。

電気をまず電気ヒーターに結び付け、次に電球を繋ぎ、それからモーターに接続します。
これら三種類のエネルギー変換装置(表現媒体)に共通した電流を流した時、
ヒーターから熱が、電球からは光が、そしてモーターから力が、それぞれ表現されます。
つまり、そのままでは眼に見える性質を持たない電気が、
それぞれの表現媒体の性質に応じて、五官で知覚することのできる三種類の現象を
生じさせたことになります。
しかしながら電気そのものは、これらの三種類のエネルギーが表現された状態の
どれでもなく、全部合わせたものでもなく、これらの現象の背後に在る共通した
本質であるわけです。これと同じ様に人間も、肉体や心、あるいは高次の精神活動や、
更にまたほとんどの方々にとっては抽象的な概念である魂のどれでもなく、
またこれらを全部合わせたものでもなく、こうした現象の背後に在るのこそが
人間の本質なのです。

【新版 黎明 葦原瑞穂著 上巻 第4章 人間 P65L8~L15】

上記文中の「電気」を「生命エネルギー」に置き換えることで、
私の先程の妄想とつながってくると思います。

人それぞれの受け取り方や理解度によって異なりますが、
“なんとなく”もしくは“ぼんやり”という程度でも結構ですので、
理解できればOKです。

実はこの固定化されていない、自由な感覚の
“なんとなく”もしくは“ぼんやり”の理解がとても重要で
同じような繰り返しでもいいので、その積み重ねが大事なのです。

そして、いつの日か私たちの手に及ばない、背後の大いなる存在に気づき、
私たちは「生かされている存在」そのことに気づかされます。

前編を含め、「妄想にふける」という行為は、時間のムダ、遠回り、
あるいはその場に集中できていない、そんなどちらかと言うと
ネガティブな感じに思われがちです。
特に、私の場合は、幼少の頃から続いていた習癖でしたので、
厄介な側面もありました。

しかし、厄介な習癖と思っていた妄想さえも、
状況によっては、むしろそれを利用する形で、
私が必要とする真実を引き出すお手伝い、
プロセスとなり得ることがわかった、
とても貴重な経験となりました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
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どうぞよろしくお願い致します。

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