「まさか」が「魔坂」になる時

今回のタイトルをつけたのは、こんな出来事がキッカケでした。

先日、朝の通勤時、先を急いでいたため、近道を通りました。
その近道は幅が狭く、しかも真ん中辺りに側溝があり、
さらに道幅を狭くしていました。

そこを一気に駆け抜けようとした時、2、3歩進んだ時、
つまずいてしまい、前のめりで転んでしまいました。

すぐに立ち上がり、いつも歩いている道に合流したのですが、
何かおかしいと気づいて着ていた上着の胸辺りを見たら、
血でべっとり濡れていました。

痛みはそれ程でもなかったのですが、
あごの下を切ってしまったようで、
その傷口からの出血でした。

最寄り駅までは、人目に触れることなく行けたのですが、
問題は電車に乗った時でした。

歩いて血流が回っていたためか出血が止まらず、
人に迷惑がかかってはいけないと思い、
出入口のドア付近でかがみ片足を床につけて
終着駅までそこに居ました。

その間も出血は止まらず、
電車の床の上にポタポタと落ちるような状態で、
何とか仕事先のマンションの管理事務室に到着しました。

この体験を通して思ったこと、感じたことがありましたので、
私自身に言い聞かせるつもりで率直にシェアしたいと思います。

私は子供の頃、大人が通れない幅の狭いところや、
ブロック塀の上を歩いたり、頭ぐらいしか入らないすき間を
はいずりながら通ったりと誰も行かないところを
ひとりで行くのが好きでした。

子供心に危ないとわかっていても、
運動神経に自信があったのか、
怪我をしてもすり傷程度ぐらいなら気にせず、
毎日そんな危険なところを通るのを楽しんでいました。

親からも干渉されず、戦争映画にも影響を受けたのか、
小学校高学年までそんなことをしていました。

ところが中学校に上がり環境ががらりと変わり、
それ以降は人の目、世間体もあって、
そのような行動をしなくなりました。

しかし、習性とは恐ろしいもので、
このころの体験はしっかりと潜在意識に
インプットされてしまったようです。

現在でも、冒頭の”近道を選択する”というように、
時短とか自分の都合とか、そんな個人的な動機のために、
傍から見たら危険と思えるような行動を
今でもすることがあります。

恥ずかしながら、この年齢(2020年10月現在、59歳)になっても、
子供の頃のように冒険好きの性質がまだ残っているようです。

身体が年齢とともに衰えているのを認めようとせず、
いつまでも若いつもりでいようとする“頑固さ”
今回の怪我の要因に挙げられると思います。

“過信は怪我や事故のもと”と他者から言われたとしても、
私たち人間の習性として、つい忘れてしまうことが
多いのが現実だと思います。

そして結果として、怪我や事故を引き起こして痛い目に合った瞬間、
それこそ「まさか」が「魔坂」になる時となります。

「まさか」が「魔坂」となる原因をつくっているのは、
過信と傲慢という心の作用であり、人間は忘れる習性がある
という認識の上で、いつ何時でも心身に意識を向け
注意深くある必要があるということです。

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