「執着」とは悪いものか?

前回のブログでの“執着の放棄”という表現や、
世間での一般的な見方を含め、執着に対しては、
いいイメージを持っている方は少ないように思います。

執着の1つ表現に”こだわり”があります。
“こだわり”には、オリジナリティーな表現、丁寧さ、心地よさ、
といった特徴的な一側面もあります。

執着には、泥臭さ、しつこさ、固執した価値観、強迫観念、
といった個性と絡み合いながら染みついている、
という見方をされがちです。

そこだけにスポットが当たってしまうと、
どうしても印象が悪い傾向になってしまいます。

このような時に注意しなければならないことがあります。

それは良い悪いを含め、印象やイメージと言った
先入観だけで物事を判断せず、
より慎重により謙虚になる必要があるということです。

特に執着という見えない心の動きを計るのは、
自他問わず扱いが難しいことだと思います。

しかし、執着との正しい向き合い方をするのであれば、
最終的に自分でその状況が識別できるようになり、
どうすればいいのかの方向性がわかるようになっていきます。

そのことを踏まえた上で、まず、言えることは、
“執着を持つことは決して悪いことではありません。”

“むしろ、心の成長のためには執着を持った方がいい”
そんな一見偏った言い方さえできます。

執着は人間の持つ一種のエネルギーですから、
やりたいことのモチベーションに点火するような
役目を果たします。

そしてやり遂げるまで執着を持ち続け、
やり遂げたら執着は必要がなくなるので、
自らの判断で手放せばいいのです。

例えて言うなら、子供とおもちゃの関係のようなものです。
子供は好きなおもちゃには夢中になって遊びます。
しかし、そのおもちゃも満足感が満たされれば、
飽きて必要がなくなります。

要は、“執着を自分のやりたいことのために利用し、
利用し終えたらキッパリ捨てる”
、ということです。

大切なことは、捨て去った同じ執着をまた持たないことで、
そうすることによって心の成長が1つ遂げられます。

次の新たなステージへと上がり、
そこでまた新たな執着の利用が始まる、
というようにさらなる心の成長のため、
とことん利用し尽くせばいいということです。

このことによって“執着の囚われ”が次第に薄れていき、
そして人生の最後を迎えての”執着の放棄”に至ることが
この世で生を授けられた私たち人間の最後の目標となります。

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