過去に本質を見極めるためのヒントが在る 2/4

1/4からの続き

2度目は車の事故でした。
私が38才の時で、健康商品のN社の営業時代でした。

個人的には、結構世間では、よく聞く事例なのですが、
身内の中で起きた自家用車(中古のセダン)の人身事故でした。

自宅の駐車場に車庫入れの時、私は車の後ろに入り
誘導をしていたのですが、運転手がアクセルとブレーキを間違えてしまい、
車はバックのまま突進し、私は車の後部のトランクとブロック塀の間に
挟まれてしまいました。

その瞬間、うめき声とともに苦悶の表情となり、
手のひらを見ると、中央が真横に一文字に裂けて出血し、
右手の親指以外の4本の指が見たこともない方向に折れ曲がった手を抱えて、
激痛に耐えていました。

一瞬の出来事ではありましたが、まるでコマ送りの動画を観ている感じで、
“この世ではない別の次元に切り替わったような”
不思議な感覚がありました。
その感覚は、前回の9才の時に起きた飛び降り事件で体験した、
身体が落下している最中のあの時の記憶と似ていました。

おそらく、私の潜在性意識にあった心身の古い記憶が
表面化してきたからだと思います。
その事によってなのか、全身の激痛とともに底しれぬ恐怖感が
心に広がりました。

その時、ありがたいことに助け舟が入りました。

以前住んでいた集合住宅時代の隣人の方が タイミングよく、
我家に車で来られました。

怪我で苦しんいた私の状況を見られ、
右手をタオルで止血し、急いで近くの救急病院に
搬送してもらいました。

ところが、その病院では、処置できる外科医がいないという事で、
市内の別の病院まで、再度搬送してもらいました。

かつて人間関係で相談を持ちかけて、
ご自分が所属する宗教団体を紹介して頂きながら、
そこを離れていった身勝手な私に、また手を差し伸べて頂いたことに、
申し訳ない気持ちとひたすら感謝の念しかありませんでした。

人の情をこれ程、心に染み入るように温かく感じた事は、
これまでの人生でありませんでした。

しかし、この病院に整形外科医はいたのですが、
手の指は神経が繊細なため、後遺症が残る恐れがあるので、
市外の病院を勧められました。

自宅で怪我をしてから、
すでに2時間以上も経過しておりました。

私の体力も限界にあったため、
その先生を信頼するしかないと自分に言い聞かせ、
すべてお任せする事を決断しました。

その決断が良かったのか、先生の技量が勝っていたのか
不明ですが、治療は無事終わりました。

しかし、治療といっても、緊急処置でしたので麻酔などはせず、
まず、親指を除く脱臼した右手4本を元に戻す
「整復」が行われ、次に車とぶつかった衝撃によって
裂けた手のひらを縫いつける処置をしました。

その1つ1つの処置をするごとに、
私は脳天を中から突き破られるような激痛が走り、
大きな叫び声を上げておりました。

あれほどの痛みは、かつて体験したことのない、
想像を絶する凄まじいものでした。

処置が終わり、自宅に戻って、
ひとりで横になって静養した時に、
やはり初めての不思議な体験をしました。

痛み止めの薬を飲んでいたとは言え、
右手だけでなく、両足の打撲など、
全身の節々がズキン、ズキンと響くような激痛の中で
自分の内側から“声”が聴こえました。

私は、怪我の後遺症か気持ちの動揺か何かで、
一時的に二重人格のようになったのでは、と思いましたが、
よ~く聴いてみると違っていました。

その声は、私の落ち着いた“声”で、

「大丈夫だ、必ず治るから、安心して」

という言葉が何度も繰り返し聴きました。

そのうち、心身の疲労と薬の効果もあり、
私はやっと眠りにつきました。

翌日の朝、全身の痛みが治まらない中、
どうゆう心境かは自分でもわからなかったのですが、
私は、もう一度、事故の後を見たいと思い、
現場を見て改めて、驚きました。

私とぶつかった車の後部トランクの中央付近が、
弧を描くように大きくへこんでいたのです。
右手の4本の指は、確かにそこへ当たりましたが、
それだけの力でトランクをへこますのは、
どう考えても不可能です。

しかも右手は、その時の衝撃ではじき飛ばされ、
そのまま私の肋骨より下の下腹部にぶつかってきたわけですから、
どう考えても大きく弧を描くような形でへこむはずがないです。

仮にへこんだとしても、無防備の内蔵にぶつかって
無傷であるはずがない。

私はこの状態をじっくり観察した事で、
これは、とても人間のなせる業ではないと、
何とも言えぬ、寒気を感じたのをはっきりと覚えております。

その後、リハビリを含めて完治するまで、
苦痛と不安の日々の連続でした。

2ヶ月以上の期間を用しましたが、傷跡は残ったものの、
右手はあの“声”の通り、完治しました。

この話には、後日談がありまして、
健康食品のN社時代に取引先を通じて知り合った、
ご住職に、この事故について私が話した時、
こんな事を言われました。

「その程度の怪我で済んだのは、
あなたが避けられない事故だったので、
あなたの守護神、守護霊がお守りしていたからだと思う。
もし、あなたが自らの意思(つまり自殺)で、
同じような事をしたなら、助けは入らず、命はなかったと思う。」

これを聴いて、ありがたい感謝の気持ちとともに、
自殺に対する戒めの気持ちがわいたことを記憶しております。

私が師事するメンターの話によく出てくる言葉に、

「1/100ディスカウント理論」

というのがあります。

怪我とか事故、災難といった突発的な現象は、後から落ち着いて振り返ってみると、

「こんな程度で済んでよかった」

「もうダメだと諦めていたが、何とか命が救われた」

「本当はもっとすごいことになっていたのでは」

そんな風に同じような経験をする度、起こった現実に対して肯定的に捉えることが
少しずつできるようになります。

さらにそうなった背景を考えていくと、先程のご住職が私に話されていた内容と
符合していることが次第にわかってきました。

しかし、それ以上に必然的なことが後になってからわかりました。
それは誘導のため、車の真後ろに入ったという
私の不注意と初歩的な判断ミスが原因だったからでした。

「自分の意識に注意深く在れ!」

在り来たりの言葉かもしれませんが、
その言葉を心にしっかり留める必要があったということです。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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どうぞよろしくお願い致します。

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