恐怖や自己嫌悪を抱える生活でいいですか?
他者と会話している時、注意深く聞いていると気づくことなのですが、
不安や心配の言葉を口に出されることがあります。
こちらが聞くつもりがなかったり、同じように思ったり、
感じたりしていなくても、相手にとっては不安や心配の対象という
認識がある以上、少しでも共有したい、理解して欲しい、
そんな想いから話をするように思います。
しかし、その話を聞いた後よく考えてみると、
“今のこと”ではなく、“未来のこと”を指して言っていることが
わかります。
つまり、“今のこと”については全く触れていない、
見ていないということが言えるのです。
また、不安や心配のさらに奥には、“恐怖”があります。
その“恐怖”を乗り越えない限り、“今のこと”に意識を向け続けることは
難しいように思います。
同じようなこととして、既に終わっている出来事に対して、
後悔したり、嘆いたり、責めたり、他者のせいにしたり、
という“過去のこと”を単に“今”に持ち込んで話をしたなら、
それは過去に囚われたままの思考で話をしている、
ということが言えるかと思います。
未来にしろ、過去にしろ、いずれの場合でも、
“現実に目の前で起きている今”とは
真正面から向き合っていないということが言えるかと思います。
というか、私たち人間は、自分勝手な妄想などによって
どんどん心が何か余計な考えを創り出してしまうことを
無意識のうちに行っています。
結果として、そのことに気を囚われてしまい、
また、現実としては多くの貴重な時間を奪われてしまい、
自分を見失いがちとなり、肝心要の目の前の“今”に対して、
意識が散漫になったり、疎かになったりして、
自分を見失いがちになる可能性があります。
さらに言うと、後悔、嘆息、自責、他責、
これらの根底にあるのは、“自己嫌悪”であり、
先述の“恐怖”と同様に乗り越えない限り、
やはり“今のこと”に意識を向け続けることは
困難かと思います。
逆の言い方をするならば、 目の前の“今” にどれだけ集中できるか、
注意深く意識して向き合えるかによって、
“恐怖”や“自己嫌悪”という課題を乗り越えるための
キッカケやヒントをつかんでプロセスを踏むという
アプローチの仕方もあります。
いずれにしても、少しだけの勇気と忍耐力があれば、
試行錯誤しながら自分の中にある無限の可能性を引き出し、
広げていくチャンスとなる“大きな分かれ目”となっていきます。
一日のうち最初は一分いや一秒でもいいから少しずつ、
目の前の“今”に真剣に集中して向き合うことによって、
過去や未来といったものに囚われなくなっていくと、
不安、心配、後悔、自責、他責といった想念が
だんだんと発動しない方向へと変わっていくように
時間の経過とともに感じられてきます。
ただし、いつも繰り返し言っていることですが、
これは本人が何度も何度も実際に経験して
真摯に受け留めていかないと、
決して身につかないものでもあります。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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