真の人生を歩んでいくには Part3
カルマ・ヨガに関してまだ触れていなかった必要な概念が
いくつかあります。
まず、最初に「カルマの法則」との関連についてです。
私たち人間は睡眠を取っている以外の時間は
常にカルマ(行為,行い)を創り続けています。
人間は言わば、“カルマ製造機”なのです。
カルマの法則とは、「原因と結果の法則」、「作用・反作用の法則」、
「因果応報」、「天に唾をする」、「蒔いた種は自分で刈り取る」、
「自分の行いは自分に返ってくる」など、さまざまに表現されています。
そして最も重要なことは、自分から放ったカルマが、
いつの日か自分に同じものか、あるいは現象として内容は違っていても
同等のものが、必ず100%返ってくるという完全、完璧な
神がつくった法則です。
人間側の視点からは、善いカルマ(行い)をすれば、
善い結果が返ってきて、悪いカルマ(行い)をすれば
悪い結果が返ってくるという至ってシンプルなものです。
カルマの法則それ自体は恐ろしいとか、怖いとかいうものではなく、
また、返ってきた結果の原因をけんめいなに探ろうとしても、
あまり意味がなく徒労に終わる可能性があります。
何であれ返ってきた結果(事実)を素直に受け容れて反省し、
次に同じような事象と向き合った時にチャンスと受け留めて
活かす努力をする、または学んでいく、
それが賢明な姿勢と言えます。
このような姿勢でカルマ・ヨガに丁寧に臨んでいくことで、
カルマの法則についての識別が磨かれていき、
また、さらにカルマ・ヨガのクォリティも向上していくという
相乗効果を生み出していきます。
次に、「目の前で起きていることが正しい」
という概念についてです。
目の前にある「人」「事」「物」といったあらゆる事象に対して、
心で想い、言葉を通して、愛と心を込めて丁寧に行為をしていく、
それがカルマ・ヨガの定義ですが、
最初の時点、”目の前にある「人」「事」「物」といったあらゆる事象”
に対峙した時、私たちの心はどうしても何らかの反応を
示してしまいがちです。
その最たるものは、“喜怒哀楽の感情”です。
感情という反応そのものは人間である限り、
出てくること自体、無理もなく仕方のないことですが、
ただ、人によってその受け留め方次第では、
そこから先の方向性が変わっていきます。
これは先程のカルマの法則を十分に理解していれば、
“目の前で起きているすべての事象は、
カルマの法則通りに展開していることに過ぎない”、
という真実がわかってきます。
言い方を換えるなら、
“目の前でカルマの法則通りの正しいことが起きている”
という表現で“事実を俯瞰して観る”そんな感じです。
最後の概念は、「今、ここに集中する」というものです。
まさにこの“今、ここ”という言葉そのものに、
カルマ・ヨガのエッセンスが
凝縮されているように思います。
つまり、“カルマ・ヨガ=今、ここ”、と表現したとしても
差し支えないように思います。
それくらい本質からすると重要度が高いということです。
私たちは何かしらの物事に取り組む時、
意図的に意識を集中していかないと、
“心ここに在らず”というような
意識そのものが、”今、現在にない”、
“過去”もしくは”未来”へと飛んでいっています。
“過去”もしくは”未来”へとは、
不安、恐怖、心配、後悔、怒り、迷い、自責といった、
自ら創り上げた想念がもとで行動そのものブレてしまい、
“今、現在にない”とは、無意識、惰性、迷妄の状態のまま
抜け出すことができず、正しいカルマ・ヨガの実践とは
反対の方向へ行ってしまうことになります。
そのような遠回りをする状況に陥らないための方法として、
心の中でときどき自問するような感じで、
「今、ここで何をする時?本来何をするために居る?」
というように心の内側へ意識を向けていったら、
ハッと気づいて我に返ることができます。
この気づきの流れが、先程の「今、ここに集中する」
という概念のことを示しています。
私たち人間の肉体は常に “今、ここ”に在るのに、
心(想念)は意識の持って行き方次第で、
“今、ここ”だけではなく、”過去”や”未来”へと
自由につくった想念の世界へ飛んでいくことができます。
しかし、よくよく考えてみたらわかりますが、
私たちは所詮、役割の担当場所で“今、ここ”でしか
生きていくことができません。
さらに、カルマ・ヨガのクオリティを上げていけばいく程、
「今、ここに集中する」、その頻度が次第に高くなっていくことが
実感できるようになります。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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