人は死ぬために生まれてくる Part3

このシリーズのブログは前回のPart2で終わるつもりでしたが、
最近、起こったある出来事から感じたことを続編として
投稿したいと思います。

それは、ある女性の病気にまつわる話となります。

その方は私より年上で、ご近所ということもあり、
犬の散歩やゴミ捨ての時などでお会いすると、
挨拶を交わす程度の間柄でした。

ところが、今年の春ごろから姿があまり見られなくなり、
たまに見かけると以前より身体がやせたように見えました。
人づての話から不治の病にかかったことがわかりました。

そのことを知った時、ふと思い出したのは、
インドの聖者アンマが語っている例え話です。

ある相思相愛の男女がしばらくぶりに会った時、
女性が建物の2階に居たので、男性は急いで向かおうと、
2階に上がる階段に足をかけた途端、
突然、心臓発作を起こしてしまい、
そのまま亡くなってしまったという話です。

「一寸先は闇」という言葉あるように、
“人生ではいつどこで何が起こるかなどわからない”
そのようなことを表現しているわけなのですが、

その本質的な意味は、
「常日頃からどんな時でも、
 心身に注意深くありなさい」

ということのように思います。

そのことを忠実に実践することによって、
もし、本人の身の上に大きな災難や苦しい出来事が起こっても、
“次の手、もしくは奥の手が必ず観えてくる”、
そんな想いに少しでもなれたら安心できるのではないでしょうか。

「どうしてそんなことが言えるのか」、あるいは
「それって何かのまやかしではないのか」、
というように思ったり、また反応したりする方もいるか
と思います。

確かにそれを論理的、もしくは科学的に立証できる
“物”はありません。

しかし、”目の前でなぜ起きているのか”、
単に起きた出来事の表面で判断するのではなく、
もし、その奥にある本質を見抜いて理解していたら、

それが、私たちがいつも決まって頭の中に描いている
“物”の概念を超えて全く違った”モノ”であることを
指し示しているように思われます。

“問題はどこにも生じていない”
つまり、言い方を換えたら、
“起きていることは正しい”もしくは、
“すべてが自然の法則通りに動いている”
ということがわかってきます。

そして、行き着くところは、
“すべてはひとつでつながっている”
という最も大事なところにたどり着きます。

だからこそ、前出のご近所の女性が、
そのようなプロセスに沿えるように暖かく見守りつつ、
「今は祈るしかない」と思えるのです。

今回の出来事は傍から見たら、確かに“他人事”の状況です。

当然のことながら人によって受け留め方も異なり、
完全に“他人事”として割り切って切り離してしまう
考えの方もいれば、そのことをキッカケに“自分事”として
置き換えて、気遣いや心配の念が出て来る方もいる
と思います。

人それぞれに自由意志があるので、
どのような受け留め方をして、
どんな行動に移そうとも個人の自由なのですが、

“自分事”としてどこまで受け留めるかは、
先述の“すべてはひとつでつながっている”
この認識の深さに関わってきます。

私自身はその女性に対して、
挨拶を交わす程度の間柄だったとしても、
“ご縁を頂いたという事実”に変わりないので、
何か少しでもお役に立ちたいという想いから、

「先程の祈りを捧げるとともに、
 もし、お声がかかったなら、
 できる限り協力をさせて頂きたい」、

そのような姿勢を通したいと思っています。

“今、私にできることを見返りなど求めず、
ただしていきたい”

そう想い続けていけたらと思っています。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
このブログの感想のコメントを一言でも頂けたら今後の励みになります。
どうぞよろしくお願い致します。

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