人は死ぬために生まれてくる Part1

60年近いこれまでの人生で、
家族や親戚、知人、恩師などの人たちの死に伴い、
その葬儀に参列してきました。

その度に個人的にいつも思うのは、
人間は死ぬと肉体が「物体」に感じられる、
ということです。

確かに感情面では悲しさや虚しさといったものはあります。
しかし、その一方で主に視覚から入ってくる情報は、
死体となった肉体に生気が全く感じられないことから、
抜け殻のように見えてしまうことで、そのような表現が近いように
思えるからです。

よく「魂が抜けた」とも表現されますが、
私自身は霊視できませんので、
確かなことは言えません。

ただ、私なりにその場に居て共通して感じられることとして、

「ほとんどの人たちが“死ぬ自覚“を持っていないまま、
 死を迎えてしまっている」、

それが現実なのではと、“何となく”ですが、
わかるようになってきました。

それは死ぬ間際になって都合よく“死ぬ自覚”することは、
どうあがいても不可能なことで、生きているうちに、
つまり、普段の日常生活で心掛けていかないと
到底無理なことだと思えるからです。

言い方を換えるなら、その人の生前の在り方、
心掛けについて、不断の弛まない努力の積み重ねがあってこそ、
“死ぬ自覚”に至る準備ができるように思います。

「反面教師」という言葉がありますが、
死んでいった人たちは、生前に“死ぬ自覚”に至らなかった教訓を
あえて私たちに身を持って示そうとしていた、
そうゆう見方もできるように思うのです。

要は「生きているうちに”死ぬ自覚”を持つように!」という
メッセージを地上に残された私たちに伝えようとしていた、
個人的な主観ですがそのように思えるのです。

あくまでも私の憶測の域の考えに過ぎないのですが、
そのように捉えていった方が関連するすべての事柄が
辻つまが合い、最終的に納得感があるのです。

ところが、現実として通常の私たちの認識では、
“死ぬ自覚”に至るための手段や方法について、
具体的に持ち合わせていませんし、
ましてや死と直面している状況でない限り、
あえて意識をすることなどほとんどありません。

そのためなのか、どうしても死に関して先送りして
考えがちとなり、避けたい、逃げたいという
遠ざけたい想いにもなったりする訳です。

その想いの根底にあり、要因となっているのは、
恐怖感、不安、心配といった否定的な想念が
根づいてしまっているからに他なりません。

しかし、私たちの頭の中では現実面という
表面的なことを見ての判断で、

「まだまだ身体も元気だから大丈夫」、

「これから先も人生はまだある」、

そんな根拠のない信憑性に乏しい、
“自分なりの基準、物差し”を持っている、
しがみついているに過ぎません。

その裏側にある本音の想いというのが、

「いつ死ぬのかなんてわからない」、

「死にたくない、死ぬのは嫌だ」、

「この世でやり残したことがある」、

やはり、先程の出てきた恐怖感、不安、心配であり、
さらにこの世への未練、執着心なのです。

結論を言えば、私たちの心はこのよう想念を持っている以上、
“死ぬ自覚”に至る準備すら入ることはできない
ということになります。

そして、最も重要なことは、

『人間は今にしか生きることしかできない』

ということで、“過去にも未来にも生きることができない”
それを完全に心の底から受け容れなければならない
ということです。

冷静になって考えてみたら理解できることですが、
私たち人間は、“今この瞬間”だけはわかりますが、
次の瞬間から今は未来に変わり、
同時に今は過去に変わっていきます。

さらに言えば、その時間の流れは自分では全くコントロールが
できないわけで、次の瞬間という未来についも何の保証されてない
ということになり、まさに急死という命を失うケースも
ありうるわけです。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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どうぞよろしくお願い致します。

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