死は恐怖を乗り越えるため最終試練

最近、ある高齢の知人(以下Kさん)の認知症が一頃より進み、
日常生活の行動をするに中で恐怖を伴なうケースがあるという話を
家族から聞きました。

そう言えば、少し前までKさんは、読書家兼勉強家で、
小説を中心に数多くの本を読まれ、読後は感想文を書かれ、
他に百マス計算やぬり絵などもされていました。

少しでも認知症の進行を遅らせるための努力だったのですが、
ところが、ある出来事で大きく影響を受けたこともあり、
現状を見る限りでは当初の目的を成就するのは、
難しかったのではないかと個人的には思われます。

前回のプログでも人の抱く未来に対する恐怖について触れましたが、
状況は違えどもその根本にあるものは“死に対する恐怖”です。

Kさんの場合も年齢から考えると、
それを意識されているからの行動と想像はできます。

ところで、私の好きな読み物にスピリチュアルの世界では
代表的な書物で、「シルバーバーチの霊訓」があります。

その中で、

“人間にとって人生とは、いずれ霊界に来るための準備期間”

“地上人生で霊界へ来る準備ができていないまま
死を迎えている人間が多い”、

“肉体が死んだら、それですべてが終わだと思い込んでいる
人間があまりにも多すぎる”、

霊にとって人間の死は再び霊として出会う喜びであり、
また、人間の誕生はしばしの別れとなり悲しみである”、

“恐怖は人類最大の敵、人の心をむしばみ、
心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼び起こす”

そのような言葉を目にします。

これらの内容について信じる信じないは別として、
ひとつ言えることは私たち人間が共通して持っていると思っている
社会的価値観とは、明らかに違っている視点や思考がある
ということがわかるかと思います。

ということからすると、
前出のKさんの“死に対する恐怖”、この根拠がどこにあるかという、
ひとつの疑問が出て来るように思います。

また、さらに言うと、まだ死んでもいない生きているうちから、
なぜ、”怖い”という恐怖の想いを抱く必要があるのか、
そして、その想いはどこから、どうして出てくるのか、
という疑問へと発展していきます。

つまり、今、現在、生きているのにも関わらず、
死についていろいろと考えたり、思ったりしても、
時間と労力のムダというか、そんなことをしても
キリがないと思うですが…

「年をとったら誰でも仕方ない」と言ってしまったら、
この話はここで終わってしまいます。
もしかしたら、そのように言っている本人も、
同じようなプロセスをたどるかもしれないのです。

しかし、ここまで書いていて、ある古い出来事のことを
思い出しました。

それは50年以上も昔の私がまだ幼い時分に、
母の実家の曾祖母お葬式に参列した時の記憶でした。

当時、母方の祖母から直接聞いた話なのですが、
曾祖母が亡くなる直前、本人の口から出てきた
最期の言葉だったというのが、

「光に包まれた神々しい雰囲気の中で、
 先に死んだ親をはじめ、ご縁のあった方々が現れ、
 それぞれが手を差し伸べてお迎えに来ている」

そのような内容だったように思います。

“お迎え”という表現からもわかると思いますが、
曾祖母本人が亡くなることを自覚していて、
既に静かで穏やかな気持ちになっていることが
想像できます。

この今際の際の心境において、“死に対する恐怖”
それは微塵もないこともわかるかと思います。
“すべてを天(神)に委ねている、お任せしている”
という言い方もできるかと思います。

つまり、死を恐怖の対象として囚われていない状態で、
死そのものを受け容れている、別の言い方をすれば、
“死に対する恐怖”を乗り越えている、
ということとも言えます。

生前の曾祖母のことはあまり覚えていませんが、
口数の少ない物静かな雰囲気を持っている方で、
どこにでも居るようなごく普通のお婆さんだったような
記憶があります。

ただ、家が先祖代々から農家だったので、
古いしきたりもあった一方で、
豊かな自然環境の中で長年暮らしてきたこともあり、
「畏敬の念」は年齢とともに重みを増していったように
思われます。

そんな昔のことを思い出しながら、
あえてKさんと曾祖母との違いは何なのかと
私なりに推測と仮説の域ですが考えてみました。

当然のことながら、ふたりはそれぞれの時代背景、
家庭及び生活環境、性格、性質など、すべてが異なります。

ただし、そのような事柄の表面を見ていくだけでは、
“違い”は見当たりません。

ところが、人間関係や物に対する「好き」と「嫌い」の判断を
していくなかで創り出された価値観及び固定観念は、
都会暮らしで科学的思考の傾向が強かったKさんの方が、
より強固になっていた印象があります。

おそらく、それぞれの「畏敬の念」という想念にも、
それが“違い”というか“差”が長い人生で
生じていったように思います。

それが最終的に、“死に対する向き合い方”にも大きな影響を
与えたように思われます。

ここで注意して頂きたい点があります。
このような件に関して、私たちはついKさんと曾祖母のふたりを
比較対照して優劣をつけたり、ジャッジしがいがちですが、
それは“ナンセンス”だということです。

ふたりが歩んできた人生は、自らいろんなことを経験するため、
その都度、局面で自らの意志で決めて選択してきたわけです。

その意味では、ふたりとも人生の価値は同等と言えますので、
どんな経験をしてきたにしろ、貴重な教訓として受け取り、
それを自分の人生に活かしていった方が有意義と言えるからです。

まさに「人のふり見て我がふり直せ」という格言通りのことを
自分の持ち場でどう真摯に実践できるかにかかってくるように
思います。

“真摯”とは、自分の行為に全身全霊を傾けることですので、
まず、それをしっかり自覚する必要があります。

本気で実践してそこから得られた経験の積み重ねによって、
最終的に『死』とどのように向き合っていくのか、
それを見出していくための足がかりが築かれていくように
思います。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
このブログの感想のコメントを一言でも頂けたら今後の励みになります。
どうぞよろしくお願い致します。

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