思い知らされた自分の甘さ

時は、今から30数年前の事までさかのぼります。
私は、東京郊外の私立大学の卒業を控え、 部活引退後して、
遅れがちな就職活動を始めておりました。

実家は都内で青果店を営んでおりましたが、
私は長男にも関わらず、「家業は継ぎたくない」
と決めており、外で働くつもりでした。

ところが、大学4年の夏から、本格的に就職活動を
始めたものの、家業と関連性のある、食品関係の企業に
行きたいという、漠然とした考えしかありませんでした。

最初の頃に、ある大手の食品メーカーの面接を受け
不採用となり、そのショックを引きずり、
就職戦線も終わりに近づくにつれ、 企業の選択も狭まっていき、
少なからず焦りが出できました。

もう時期的に食品メーカーは無理と判断し、食品卸業に切り換え、
3社を受け、その中の1社、B社から内定をもらい、
そこに入社する事に決めました。

私にとってB社での仕事が、これからの人生に大きく影響していくとは、
この時には知る由もなく、大学の卒業試験が終わると、
すっかり気が緩んでしまい、卒業旅行と称して親からお金を出してもらい、
ヨーロッパ旅行に行っておりました。

帰国すると、B社から私宛に手紙が届いており、
開封して中を見ると、それは入社後の赴任先の通知書でした。
そこには「大阪支店勤務を命ずる」とありました。

その文句を見た瞬間、一気に暗闇に引きずられるように、
“気持ちは重くなり、憂うつな気分“になりました。

おかしなもので、自分勝手と言うか、自己中心的というか、
半年以上前、 B社の面接時に人事担当者から、

「転勤は可能ですか?」と聞かれ、

キッパリと「はい、大丈夫です。」と答えたのは私自身でした。

面接時に人事担当者に対して、好印象を持たれたい、
という一種の自己顕示欲から建前を優先し、本音が言えなかった事により、
そのギヤップに苦しんだ初めての経験でした。

思えば祖父母や両親の下で、 大した苦労もなく育てられ、
世間知らずで、その厳しさに触れる機会も少なく、
自分のことさえも、ほとんど知らず、
“自分の甘さを知る機会を得た貴重な経験だった”と言えます。

「家業を継がず、外で仕事をする」と家人に言い切ってしまった以上、
もう後に引けない状況でした。多少なりとも未練はあるものの
引っ越しや転居に伴う手続きを粛々と進めていきました。

この一連の行動の中で、救いだった事は、
母親だけが理解してくれ、それが私にとって唯一の安心材料でした。
そして、「最も頼りにしていた存在だった」と記憶しております。

親子とはいえ、 後々その強く偏った情の執着が
私の心に暗い影を落とす事になるとは、
この時、微塵も思っていませんでした。

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