最初で最後のつもりで

今回のタイトル「最初で最後のつもりで」と
同じような意味の言葉に「一期一会」があります。

これらの言葉の意味を理解していても、
私たちは実際の経験レベルまで落とし込み、
さらに広く深く理解の幅を拡げていくことまで
あまり意識していません。

その結果として仕事や家事に限らず、
つい気を抜いて無意識のままでいると、
マンネリや惰性に流されてしまいがちとなります。

それによって、
「なぜ、その出来事が起きたのか?」という現象面に
焦点がいってしまい、物事の本質を識る必要性や重要性を
見落としてしままう可能性があります。

しかし、それを修正していく上で鍵となるのが、

『今、ここ』

という“時間と空間に対する注意の向け方”のように
思います。

本来なら、1日24時間、1年365日の時間、
そして、自分の居る場所(空間)において
すべて出来事が対象となるのですが、

まだまだ未熟な私には、
“我が家にとっての大きな出来事”という
家庭内という限られた視野、時空間で起きたことぐらいが
関の山だと思います。

昨年暮れから今年の夏にかけて、
私にとって2つのシビアな経験が、
それに当てはまるように思います。

1つはペットの老犬の介護と看取り、
もう1つは娘の里帰り出産のお世話でした。

2つとも仕事との両立は困難と判断して、
パートとはいえ仕事を辞めての取り組みでした。

実際に取り組みだすとそれだけのために時間を奪われ、
かかりっきりにならなければならず、
個人的なことは後回しにせざろうえない、
そんな状況でした。

これを“奉仕”と言えばその通りの表現なのですが、
やってみてわかったのは、どうやら“奉仕”について
理解が浅かったようで、言葉の重みや使命感を
ひしひしと心の中で感じる日々となりました。

言葉で表現するのは難しいのですが、
何の準備や予備知識もない初めて出くわすケースや
苦手で嫌いなケースと向き合わなければならない時であっても、

“私しかいない”というように現実の状況を
冷静に落ち着いて観察していくと最終的に、

“私がやらなければならない”という重圧を感じながらも
課題として出来事に向き合おうざろうえない、

“宿命を受け容れた意志”

というような“責任と自覚の想い”が胸にわき上がってきた
ように思います。

だから、起こった出来事すべてに対して
怒り、憤り、不安、心配、迷いといった感情が
その都度出てきたとしても、

最終的には先々の成果や結果といったものに期待せず、

“出てきた感情や想いに抵抗しない”

ということを選択し行動に移していきました。

さらに興味深いことに、
この2つの経験は表面上及び内容は
別々の出来事であったにも関わらず、

“本質と言えるような共通点”
見出すことができました。

その1つが前出の『今、ここ』の再認識です。

亡くなったペットの老犬にしろ、
娘が出産したばかりの孫にしろ、
四六時中一緒に居たことでわかったのは、

「今を生きている」ということでした。

今にない妄想にふけ、過去を悔み、未来を心配して
不安に思う私たちとは異なり、
彼らには全く過去、未来という概念がありません。

つまり、“今しかない”のです。

そして、老犬の介護や孫のお世話をしていた
そのことに集中している私の状態もまた、
“今しかない”のです。

このことは実際に身を持って体験していくことで、
本当に心の底から理解しているのと、
頭の中で理解しているのとでは、
“雲泥の差”があることがわかってきます。

そして、もう1つが『無償(無条件)の愛』です。

確かに外見上は、
「ペットの老犬」と「人間の新生児」は異なり、
当然のことながら接し方も全く違っています。

しかし、本質の視点で掘り下げていくと、
“生命”という根源では同じですので、
目の前に表現されている、

“無垢のまま心”に共鳴することで、
自然に慈しみ、愛しさという想いへと
変容していきます。

それは、お金や欲しい物が手に入るから好き、
人に従うと言った“条件付きの愛”とは異なる、
この世での諸々の条件を超えた真の愛、
つまり『無償(無条件)の愛』なのです。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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