『生きる使命』を見失わないために

この度、マンション管理員の仕事を辞めることとなりました。
1年半足らずでの退職で理由はいろいろありますが、
荒っぽい言い方ですが、そのようなことはどうでもよく、
“心がブレずに生きること”の方がズッと大事だと思います。

もしかしたら、私の考え方に付いて行けず、
現実離れの理想家、空想家と揶揄されても構いませんし、
私の考えについて共感、追随を強制するつもりも
全くありません。

私が顕在意識の心で思うのではなく、
潜在意識より深い、魂レベルの視点で、

“本当は何がしたいのか”、

“何に価値を持ちたいのか”、

そこに焦点を当てていく、
“本質的な思考”が根底にありました。

私たちは地上世界を生きていく中で、
“現実世界がすべて”という“一種の思い込み”から、
物質的価値観の偏重が生じることによって、
“勘違い”、”思い違い”、”すれ違い”などを
してしまいがちです。

また、想いを創り出すだけで終わればいいのですが、
多くの場合、“固定化”もしくは“既知化”してしまう
ことで、新たな知識の吸収を阻害してしまうことも
あり得るわけです。

さらに言うと、私たちはほとんど無意識のうちに
その行為が済んでいる場合が多いということも
忘れてはなりません。

つまり、自分の意識状態に無防備で気づいていない、
ある意味、“眠っている状態”とも言えます。

言い方を換えるなら、
“自分勝手(我)を通し続けることで謙虚になれず”
“自分の心身の状態に注意を向けない”と、

私たちは、知らず知らずのうちに本質からズレて、
ますます遠ざかっていくのを全くと言い程、
“『自覚』していない”とも言えるのです。

それを現実世界の問題として取り上げるなら、
その代表格は”お金”と言えるのでは
ないでしょうか。

私のようにこれから失業すると収入がなくなり、
失業保険に入れば、いつ頃、いくらくらい、
手当金が入るというように想いを巡らせ、

家族が未来の生活に不安を抱き、
アレコレ右往左往と騒ぎ始め、

そんな想いの結果として、
"お金の算段をしなければならない”、
という流れとなります。

この一連の流れの根底には、
“お金在りき”の考え方が主流で、
その欲求や心配のエネルギーが
強くなれば強くなるほど、

いわゆる“負のエネルギー”に流され、
自分でも気づかないのうちに、
“エゴの餌食、手下”の方向へ傾いてしまう
可能性が出て来るように思います。

現代社会では自給自足の生活は
現実的に不可能であり、毎日生活ため、
お金と切り離して暮らすことなど、
到底できません。

一方で、お金が十分有り、全く生活に困らない
状況であれば、“幸せで満足”とも言い切れない、
“バランス崩しの人生”を送っている人も
多いように思います。

結局のところ、冒頭に記した、

“本当は何がしたいのか”、

“何に価値を持ちたいのか”、

という“原点の立ち位置”に戻り、
そこにしか“求める答え”がないという
ことすら私たちは知らない、

つまり、“無知”ということすら知らない、
もしくは知ろうとしないだけなのです。

“求める答え”とは、今生の人生の目的、
すなわち『生きる使命』であり、
それは人それぞれ役割で異なり、
向き合い方もそれぞれ違います。

ついでに”お金”との関係ですが、
まず『生きる使命』を識り、全うすることが、
この地上世界に生まれてきた魂の目的ですから、

“お金在りき”の考え方を先行することは、
エゴの考え中心で物事を進めていくことで、
唯物的個人的思考の傾向となり、

自ずと“有限”、つまり、限られた思考範囲で、
判断しなければならなくなります。

それは人間の頭の中で選択肢が限られた中での
判断、方向性、結論といったものですので、
“無限の可能性”を秘めている“求める答え”とは、
違ってくる可能性も十分にあり得るわけです。

さあ、あなたなら、“有限”“無限”のどちらを
選択する道を選びますか?

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
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今後の励みになります。

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