人生は何のためにあるのか?PART1
「私の人生は何のためにあるのか?」
「この人生での目的、役割、そして使命とは何なのか?」
そんな疑問を自分に問いかけたことありますか?
私の場合、苦しむ心の叫びを幾度となく聴いては問いかけ、
探し求めてきたのですが、正解の「答え」が出ないまま
ここまでの来ました。
良好な人間関係のもと、ストレスも抱えず気楽に仕事ができる、
そんな環境下での仕事が「天職」だと思ったり、
物事の流れに逆らわず、身を任せようと頭の中で思っていても、
つい我が出てしまい周囲の調和を乱してしまい、
結果がうまくいかなかったり、
カリスマ性のある人物からアドバイスをもらうと、
それを鵜呑みにして信じ込んでしまい、
「これは絶対正しい」と決めつけ行動に移してしまったり、
そのような家庭や周囲の状況も顧みず、
自分勝手で都合のいい、狭い価値観、固定観念の枠組みで
すべての事柄を当てはめようとしてきました。
「人生のひとり相撲」そんな表現がピッタリだと思います。
我ながら振り返ってみると、つくづく余計な行動と思えるような
遠回りの人生を歩んできたように思います。
当然のことながら、心の中で「自分が正しい」と
思い込んでいましたから、周囲の人たちの意見や考えに
耳を傾けることもほとんどありませんでした。
まさに疑う余地のない“自由意志の行使”でした。
自由意志は個人にある程度の許容範囲が与えられているようです。
ところが、その許容範囲を超えてしまうと、
必ずその反動があります。
自然界の法則であるカルマの法則が働き、
振られた振り子がまた戻ってくるように、
本来あるべき定位置に引き戻されます。
わかりやすく言えば、
利己心から欲望を追い求め、エゴにまみれになろうとも、
わがままで好き勝手な生活、生き方をしようとも、
「いつかそのことに気づく」
「気づかないのであるならば、
気づくまでメッセージやヒントが”送り続けられる”」
それが『心の変容』を起こしていく第一段階となります。
ここで注意が必要なのは、利己心の欲望を追い求め、
エゴにまみれになることが、決して「悪い」というのではありません。
人間ひとりひとりは「個」の認識が原点なので、
その「個」を大切にする、その想いが助長されたに過ぎません。
「個」があるなら、もちろん「全体」もあります。
「全体」といっても、
「固定、限定されたものではない」、
「無限の側面を持っている」、
人間の五官では捉えることのできない性質を
持っています。
「全体」を指し示す表現として、
地球や自然界という物質的なものもあれば、
心や意識という目に見えない非物質的なものもあり、
さらには宇宙という広大なスケールのものもあります。
また、それらをすべてまとめて
「全体」と表現することもあります。
ところで、「個」と「全体」についてですが、
どのような関係あると思いますか?
私の理解している範囲で結論を言うと、
「個」を通して「全体」に寄与するという側面、
「全体」もまた「個」が寄り集まって成り立っているという側面、
つまり、“相互が協力しているから存在している”、
そのように言えるのです。
前出にありました、
「気づかないのであるならば、
気づくまでメッセージやヒントが”送り続けられる”」
これには”主語の誰が”が抜けています。
実はそれが「全体」なのです。
冒頭にありました、
「人生での目的、役割、使命とは何なのか?」
それが見つけられない理由がようやくわかってきました。
人間の「個」という限定された範囲での思考、
つまり”自我意識”で物事を判断するのでは、
何度も考えてたり、実際に行動したりしても、
人生の目的、役割、使命を見つけ出すことは
できなかったのです。
「全体」についての本質的な理解と視点を持たない限り、
本当の意味で、人生の目的、役割、使命へアプローチすることはできない、
その入口が少しだけですが観えてきました。
人それぞれの受け留め方、気づき、行動そして反省を繰り返すことで
「無知な私」から抜け出し「私が誰かを識る」、
すなわち“自我意識”から“全体意識(普遍意識)”へと
シフトチェンジすることによって、
人として真の目的、役割、使命が観えてくる、
そのように思います。