「木を見て森を見ず」の真意

最近よく「木を見て森を見ず」ということわざを
なぜか耳にする機会が多いような気がします。

同じようなことわざに、
以下のようなものがあります。

「鹿を追う者は山を見ず」「金を掴むものは人を見ず」

一般的には「物事の部分だけを見ていて全体を見ていない」
という意味となりますが、“全体”“本質”に入れ替えても
差し支えないように思います。

通常、私たちは起きた事柄について、その表面、
つまり”部分”にしか見ないことによって、
そこにしか意識が向きませんし、また当然のことのように
“そのまま”取り上げてしまいがちです。

また、この意味を理解していても、
問題として気になるある一部の事象にだけに当てはめ考える、
という方も居ました。

そして、何かの事情で優劣や優先順位をつけたり、
あるいは横並びで捉えたりして、
私たちの都合で解釈をつけていったりします。

現実として、道徳的、社会的に何も問題が生じなければ、
その解釈が”正しい”と思いがちになります。

ただし、“全体の視点”へ変えていかなければ、
“本質”へと切り換えることはできませんので、
それに気づかなければ、”部分” という限定された領域から
抜け出せないという言い方もできるかと思います。

“本質”という“森”の存在に気づくことによって、
言い換えれば、別け隔てなく全体を見渡せるという
視点に立つことによって、“部分”という“木”では観えなかった、
今までの想像を超えたもの、発想の転換で生み出されるものなど、
全く新しい価値観や創造物がつくられる可能性が出てきます。

つまり、目の前で起きている現象に対して、
上辺の表面を見ただけで判断したり、また既成概念で決めつけたり
するのではなく、その奥にある“本質” をいかに見出していくか、
それが最も重要なことになります。

ところが、そのことがわかっていたとしても、
他者へ進言する必要があるとなると
どうしてもハードルが高くなることも事実です。

ましてやその相手が相性の悪い仕事先の上司なら、
なおさら厳しい状況が予想できます。

その場合、問題となるのは伝え方であり、
相手の性格にもよりますが、寛大さと理解がないと、
気分を害したり、反発される可能性は十分にあります。

否定的かつ直接的な表現ではなく、
できるだけ相手の立場や理解度に配慮しながら、
“それとなくわかってもらうように伝える”、
そんな感じになるかと思います。

個人的に好きな表現ではありませんが、
“腫れ物に触るような”というのに近い感覚で
言葉を慎重に注意深く選びながら誠心誠意の気持ちで話すのが
ベストかなと思っています。

また、伝えた結果、そのことを相手が受け入れようが、
拒否されようがどちらでも構わないと考えていた方が
気が楽だしストレスにならないと思っています。

以上のような考えのもと、
うるさくて面倒くさい奴だと思われ距離を置かれている
上司に対して、私が自分勝手にこのような戯言を語りながらも、
しかし、心から待ち望んでいるシナリオでありました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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どうぞよろしくお願い致します。

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