クレームが『愛』だとわかった時 後半

今回の前半のブログを書きながら、
勤務しているマンション内で過去に遭遇した
いくつかのクレームのことが思い返されました。

具体的には掲載しませんが、
クレームについて興味深い点がいくつか見い出せましたので、
そのことについて触れていきたいと思います。

まず、起きた事象に対して、個人の持っている価値観によって
当然、受け留め方つまり反応がそれぞれ異なるため、
また、生まれ育った環境や現在に至る思考グセとともに、
過去の記憶から得られた情報が絡んできます。

つまり、私たちは目の前で起きている事象に対して、
無意識または惰性に任せた形で過去に経験した記憶と
比較し参照しながら物事を判断していく傾向があるため、
言わば”自分の思い通りにしようとする想念”によって
物事を進めたり、実現化しようとする習性があります。

わかりやすい表現をするならば、
「自己中心的な思考」、つまり「わがまま」です。

また、それは「究極の自己愛(エゴ)」という言い方もできます。

このような表現をすると否定的な考え方と思われがちですが、
よくよく私たちの心を観察していきますと、
悟りを開いた覚者でない限り、誰でもエゴは持っていて、
それは決して悪者ではなく、活用次第では役に立つ可能性さえ
秘めています。

エゴは自己主張の原動力でもあり、
言わばクレームを支えているエネルギーでもあります。

クレーム対応の原則論は相手の方の話をよく聴く、
いわゆる「傾聴」が基本で、それはカウンセリングと同じです。

ということは、クレームを受け取るマンション管理員である
私にとっては、相手の方(住民)のエゴとどう向き合っていくか、
その対応に尽きるかと思います。

私の場合、過去に営業の経験があったとはいえ、
状況が異なれば自ずと対応も異なりますので、
当初はクレームを受けた時点で、
面食らってしまい戸惑っていた状態でした。

当然のことながら、その状態だとクレーム処理後も
嫌な重い気分を引きずったままとなり、
既にその場にいない相手の方に対して、
不満や愚痴をひとりごとで言っていました。

ところが、クレーム処理をする度、
同じようなパターンにハマり、嫌気が差して抜け出そうと
必死にもがくのですが、どうしても不満や愚痴を言う世界から
抜け出すことはできませんでした。

しかし、相手の方のエゴやネガティブなエネルギーに巻き込まれ、
焦りや不安、さらに恐怖を感じたとしても、
一瞬でもいいので、心がその場から離れる感じ、
つまり、その感情から距離を空けて大空を飛ぶ鳥の目のような
俯瞰する視点を持つ、

いわゆる“意識のフォーカスチェンジ”を行なうようになってから、
少しずつ落ち着きと冷静さを取り戻すことができるように
なっていきました。

そして、これまで積み重ねてきた経験から、
相手の方が脅してこようが、わめき散らそうが、
“話を合わせていても本気で同調はしていない”
つまり、“エゴに巻きこまれない客観的姿勢”
次第に貫けるようになってきました。

このノウハウはカウンセラーとして駆使するものと
思っていたのですが、マンション管理員が行なう
クレーム対応についても有効に活用できることが、
経験を通してわかってきました。

また、クレームは個人の持つ価値観や固定概念に基づいての
ご本人しかできない個性の表現という側面から観ていくと、
実は後になって、クレームの時に識ることができた性格や性質が
異なった局面で役に立つことがわかってきました。

ここまでクレームについて前編と後編の2回に渡って
いろいろな角度で述べてきました。

クレームを言われる方の想いを言えば、
前編で触れた “『何とかして欲しい』という切実なる想い”
このことにほぼ限定されてくるかと思います。

それは確かに前出の「究極の自己愛(エゴ)」 から
出て来ているケースがほとんどなのですが、
大空を飛ぶ鳥の目のようなズームアウトした俯瞰視点、
つまり、“「個」から「全体」を見渡すような視点”
切り換えていくことで、全く違った発想や考えが出て来る
可能性があります。

クレームという個人の行為、「個」の視点が起点となり、
マンションという「全体」の視点へと切り換えていくことで、
いずれ共通課題が浮き彫りになってくることとなり、
それが“マンション全体の寄与”へとつながってく可能性が出て来ます。

というか、より突っ込んだ言い方をするならば、
クレームという「個」の存在は、マンションという「全体」の存在と
元々つながっているという真実に気づいている、または識っている方が
“皆無”というのが現実のように思います。

この真実がわかっていたなら、マンション内で起きている事象が
ジグソーパズルのピースをはめ込んでいくような感じで
次から次へと不思議に辻つまが合っていき、最終的には、
“すべてはつながっている”
ということが観えてきます。

つまり、”マンション全体の寄与”ということは、
住民の皆さんにとっては好意的に受け留められる事柄となりますので、
少々大げさな表現かもしれませんが、
“愛の行為”という表現できるのではないでしょうか。

元々は、すべてはクレームから始まったわけですから、
違和感を感じられる方もいるかもしれません。

ところが、今まで私たちが持っていた視点を変えることによって、
『愛』と表現できる領域に踏み込めるようになります。
そして、「それが真実」という言い方もできるように思います。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
ご興味、ご関心を持たれましたら、
このブログの感想のコメントを一言でも頂けたら今後の励みになります。
どうぞよろしくお願い致します。

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