愛犬の生と死から学んだこと Part3

私たち人間とペットとの関係は、
個々の生活環境や精神状態などによって
それぞれに異なると思いますが、

それでも”飼い主と飼われるペットとの力関係”という
視点で見ると“主従関係”という見方が
一般的のように思われがちです。

そのため、人間の方が常に上のポジションに居て、
ペットが当然下というような価値基準、判断基準として
認識される傾向にあるわけです。

そのような認識が私たちの潜在意識の中で固定化、
もしくは心の中で決めつけてしまうと、
単にペットを飼っている、ただ世話をしている
というように、

現実的、もしくは物質的な側面にしか
意識が向けられなくなる可能性があります。

そのような状況に心が埋もれてしまい、
形式的な事柄として、言わば表面的に何気なく、
無意識に近い感覚で物事を済ましていってしまうと、

前回のブログの最後の方で表記した、

『我以外皆我師也』

この言葉の本質的な意味から離れてしまい、
“理解の遠回り”をしてしまう可能性があります。

これは相手がペットに限らず、
どのように相手と接するのか、また想いを寄せられるのか、
今、何ができるのか、または何をしたらいいのか、
というように瞬間毎真剣に向き合う必然性があるわけです。

当然それは“主従関係”という私たち人間のエゴがつくった
概念を超えた関係になります。

私たちは、そのような状況を
“愛情を持って”とか、
“相手の気持ちになって”とか、
“自分がして欲しいことを”とか、
さまざまな言い方ができると思いますが、

それをひと言で言うならば、

『無私の奉仕』


という表現になるかと思います。

さらに補足するならば、
この言葉は、単なる愛情や優しさを表わすものではなく、
“意志の強さ”も含んでいるように思います。

そのことを実感したのは愛犬が終末期を迎えて、
動物病院の担当獣医の治療方針に従っていく中で
起こった出来事からでした。

ある薬剤の副作用でどうしても水が飲みたくなり
水飲み場に行くのですが、獣医から体調が良くなるまでは
絶水の指示があり、その間飲みたくても一滴も与えることが
できませんでした。

また、絶水の指示が解かれても、一度に数滴ずつ与えるという
年老いた愛犬にとっては過酷な状況となりました。

しかし、それが愛犬の生命を少しでも長く維持するため、
不可欠な対処であると覚悟を決めて実行に移しました。

心を鬼にしての行動と同時にやり切れない気持ちで、
何度もそれを繰り返すうちに、
まさに胸が張り裂けそうになりました。

それでもやり続けていくと、
ある時点で何か吹っ切れたような感じとなっていき、
少しずつ淡々とやれるように変化していきました。

後から思えば、それも“愛の行為”であったと
ようやく納得に至りました。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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どうぞよろしくお願い致します。

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